ゐないだけである。
混雑する場所でみんなが先を争ふのを困つたものだと云ふ。しかし、よく見てゐると、なるほど先を争ひはするが、非常に消極的な争ひ方で、云はゞ、入口なら入口へ、君もはいれ、おれもはいる、といふやうな押し合ひへし合ひである。殆ど腕力に訴へるといふやうな激しい場面は生じない。黙々として、魚の如く、肩をすぼめて割り込んで行くだけである。時間があれば長蛇の列を作る習慣もそろそろついて来た。ところで、この長蛇の列でも、横から途中へもぐりこむのがゐても、それほど誰もやかましく云はない。電車の出札口などでは、左から順にと書いてあるのに、それを守つてゐる人間の眼の前へ、右からぬつとはいつて来て、いきなり手を出す。左側の先頭は、眉ひとつ動かさない。時には、慌てゝ、窓口へ出した金を一層奥へ押しやるぐらゐのものである。「馬鹿野郎、この字が読めないのか!」と啖呵を切るのを私は聞いたことがない。なんといふ穏やかな国民であらう。ところが、腹の中は煮えくりかへつてゐるんだといふことを、私は自分の経験で知つてゐる。法律や道徳で解決のつかぬものがある。序だから云ふが、かの浅間丸事件や斎藤事件で国民の示した態度はどうであつたか? かういふ問題をあゝいふところまで引つ張つて行つたのは、誰の責任か? ほんたうに云ひたいことを適確に云ひ表はす訓練のない人たちの責任だつたのである。
七
私が遺憾に思ふのは、国民に道徳心がないといふやうな途方もないことではない。お互の間に、心から心へ呼びかけるところの共通なひとつの新しい風俗がもうそろそろ出来なくてはといふことである。
国民一般は、そのために、互に不信の眼をもつて対し、神経を不必要に浪費し、軽蔑に値しないことを軽蔑し合ひ、外国人の誤解を招き、予期しない国家的損失を蒙るのである。
それなら、かういふことが一朝一夕で改まるかといふと、さうはいかぬ。しかし、道徳的標語をもつて国民の総力を動員しようとするのとそんなに変りはない。しかも、一旦成功すればずつと永続性があり、また国民相互の自発的協力によつて十分魅力ある運動となり得るであらうところに、私は大きな希望をつなぐのである。
国語の整理統一、生活改善、都市計画、娯楽施設、文学芸術の利用、その他一切の文化部門に於ける活動の眼目をこゝに置くことは、わが国の現状として、まさに緊急事である。
わが軍隊の強みは、私に云はせれば、専門的な技術の訓練もさることながら、軍隊として、夙に、整然と上下を通じて一貫する風俗の樹立を敢行した点にあるのである。そして今日、軍人の風俗と、いはゆる地方人のそれとの間にあまり画然たる開きができてしまつたところに、わが国情の一種の悩みもあるわけであるが、私は、これを例に引いて、国民全体が、決してユニフオームに象徴される軍隊風でなく、それぞれの個性、それぞれの階級、それぞれの社会に応じ、しかもそれらに共通する新時代の日本風俗を創りだす努力をしなければならぬといふことを云ひたかつたのである。
軍隊風俗は、軍隊の使命において、ひとつの美風を誇つてよい。国民は国民の使命に於て、より寛闊な様式を理想とすべきであらう。
八
欧化主義に対する批判は既に終つてゐる。風俗の国際化といふ問題について考へてみても、私は、その意義と限界とを、国粋主義の立場からでなく、自然の理法として早く闡明してほしいのである。たゞ単に方向が与へられさへすればよい。
服装における和洋折衷は、もはや退化の一路を辿りつゝあるやうに思へる。和服に靴を穿くものはとつくになくなつた。帽子もやがてかぶらなくなるだらう。
日本人のお辞儀も、今や千差万別である。素気ないのになると、たゞ頤を突きだすだけといふのがある。膝をちよつと折つてみせるやり方も簡略至極である。「やあ」と云つて近づいて来るから、お辞儀をするのかと思つて待つてゐると、遂にそのまゝといふのがある。長くして掻きあげてゐる髪が前へ落ちて来ないやうに、斜に首を曲げるのがある。片足を後ろへ蹴あげるやうにするのがゐる。千差万別一向に差支へないが、共通の心理は、お辞儀は文字どほり形式だと思つてゐることである。もつともこれはみんな若い男の場合であるが、女のひとはそれほどでもない。その代り、何を喋るのにも、相手がそれをどう思ふかといふことばかり気にしてゐる。それは言葉の云ひ廻しにも、顔や手の表情にも絶えず示されてゐる。
私はかういふ婦人と対ひ合ふ毎に、西洋のある種の女のつゝましい雄弁を思ひ出す。そして、それは、女性自身の心掛けよりも、男性の取扱ひがこの嗜みを作りだすのだといふ風にも考へてみた。風俗の国際化がこのへんから機微な点に触れて行く。
九
断つておくが、私自身としては、日本の風俗など現在のまゝですこしも不便は感じないし、それをぢつと眺めてゐることがなかなか愉快でさへもある。気楽といふ点では、自分もご多分に漏れぬ現代の日本人であるから、この調子で行つてくれた方が努力が少くてすむのである。
しかしながら、私は、日本対外国といふことを考へると、ぢつとしてはゐられない気がする。揉んで揉んで揉みぬいた末、落ちつくといふのが、文化としての風俗生成の普通の過程であらうと思ふが、さういふ暢気なことを云つてゐられないのが、興亜の聖業などゝいふ言葉の生れた、今の場合なのである。
百年先に出来上るものを五十年に切りつめたい。五十年かゝるものなら、二十年にちゞめたいのである。それもなほかつ無理だとすれば、せめて、その弱点を埋める応急の処置を講ぜねばならぬと思ふ。別にこれは、外国へ秘密にする必要はない。日本人が宣伝下手だといふことぐらゐ、誰よりも先に当の外国人が気がついてゐるのである。
日本人自身は、宣伝下手なことを一つの美徳として自ら慰め、その実、ひそかにあの手この手を考へてゐるわけだが、これまた道徳とは関係のないことで、世界の良心と人間の本性とをよく知り、しかも、日本人としての真実にみちた表現を、相手国の活きた言葉で綴り得る人物がその衝に当つてゐないといふだけである。それくらゐの人物は探せばきつとゐる。どういふ人物にそれができるかといふことが、もつと早くわかつてゐてほしかつた。まだそれがわからぬといふなら、そこにも現代日本の風俗の弱点があるのである。
一〇
そこで、国民は、なにもかも政府に委せておいてはならないといふことを、もつと切実に感じなければならぬ。それと同時にわれわれ自身のなかにある弱点を、公然と指摘して、相共に、これを克服することに全力をあげねばならぬ。私は固く信じるが、この国民的運動の成果は、たゞに、わが日本の前途を光明に導くのみならず、隣邦支那の識者をして膝を叩かしめ、欧米諸国の徒らな感情的悪気流を一掃するに役立つであらう。
事変処理の面がどんなに多岐に分れてゐても、この一面を忘れることは、国家百年の計を樹てるうへに甚だ遺憾であると思ふ。道徳の旗印を掲げることはもちろん必要な場合もある。しかし、いつの場合でもそれは最も容易なことである。国家の大事業は決して常に易きについてはならぬ。国民の指導者がさういふところへ力瘤を入れゝば入れるほど、国民全体は事実を甘くみる。そこで私は、現代風俗の問題をあげて、その非道徳性を指摘した次第である。
私は性急に事を運ばうと考へてゐるわけではない。ある医家の初期の肺患者に云つたごとく、
「今急にどうなるといふ病気ではありませんが、たゞ、知つてゐるといふことが大事です」
今は、誰が悪い彼が悪いと云つてゐる時期ではなく、何処に悪いところがあるかといふことをはつきり突きとめ、一国民全体が、一斉にその病根を封じてしまふこと、これはもう道徳的にいふ義務や犠牲ではない。われわれの好みに適つた伝統的な「たしなみ」である。(昭和十五年六月)
底本:「岸田國士全集24」岩波書店
1991(平成3)年3月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
1941(昭和16)年12月20日発行
初出:「文芸春秋 第十八巻第九号」
1940(昭和15)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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