俗など現在のまゝですこしも不便は感じないし、それをぢつと眺めてゐることがなかなか愉快でさへもある。気楽といふ点では、自分もご多分に漏れぬ現代の日本人であるから、この調子で行つてくれた方が努力が少くてすむのである。
 しかしながら、私は、日本対外国といふことを考へると、ぢつとしてはゐられない気がする。揉んで揉んで揉みぬいた末、落ちつくといふのが、文化としての風俗生成の普通の過程であらうと思ふが、さういふ暢気なことを云つてゐられないのが、興亜の聖業などゝいふ言葉の生れた、今の場合なのである。
 百年先に出来上るものを五十年に切りつめたい。五十年かゝるものなら、二十年にちゞめたいのである。それもなほかつ無理だとすれば、せめて、その弱点を埋める応急の処置を講ぜねばならぬと思ふ。別にこれは、外国へ秘密にする必要はない。日本人が宣伝下手だといふことぐらゐ、誰よりも先に当の外国人が気がついてゐるのである。
 日本人自身は、宣伝下手なことを一つの美徳として自ら慰め、その実、ひそかにあの手この手を考へてゐるわけだが、これまた道徳とは関係のないことで、世界の良心と人間の本性とをよく知り、しかも、日本人とし
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