風邪一束
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)風邪《かぜ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何々|加多児《かたる》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
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年久しくその名を聞き、常に身辺にそれらしいものゝ影を見ながら、未だ嘗てその正体をしかと捉へることの出来ないものに、風邪《かぜ》がある。
風邪は云ふまでもなく一種の病である。多くは咽喉が荒れ、咳が出、鼻がつまり、頭が痛み、時には熱が上り、食慾進まず、医師の手を煩はす場合が屡々ある。
凡そ今日では、病気の数がどれくらゐ殖えたらうか。病名がきまつて、病原のわからぬものも随分あると聞いてゐるが、病原がわかつても、予防ができず、予防はできても治療できない病気の名などは、あまり耳にしたくないものである。
さて、風邪のことになるのだが、私は、医学上、此の病気がどう取扱はれてゐるか知らないし、何々|加多児《かたる》といふのは風邪の一種だなど聞くと、もう興味索然とするので、風邪は飽くまでも風邪又は感冒なる俗名で呼ぶことにする。
――なんだ風邪か。
――風邪、風邪つて、油断はならない。
実際、風邪くらゐで大騒ぎをする必要はないといふしりから、風邪がもとで死んだといふ話をして聞かせる奴がある。
尤もかの流行性感冒といふ曲者は、近時、「スペインかぜ」なる怪しくも美しい名を翳《かざ》して文明国の都市を襲ひ、あつと云ふ間に、幾多の母や、夫や、愛人や、子供や、女中の命を奪つて行つた。同じ死神でも虎列剌《これら》や、黒死病《ぺすと》と違ひ、インフルエンザといへば、なんとなく、その手は、細く白く、薄紗を透して幽かな宝石の光りをさへ感ぜしめるではないか。
私も先年「恐ろしい風邪」を引いて、危く一命を墜とさうとした。
ふらつと旅に出た、その旅先のことで、海岸の夕風に小半時間肌をさらしたのが原因だつた。それが、たま/\、さして懇意なといふでもないA氏の家で、三日間発熱四十度を下らないといふ始末なのである。そのまゝ、H博士の病院へ運ばれて、肺炎ときまり……その後は話すにも及ばないが、此の時の風邪で思ひ出すのは、そのA氏――画家にして詩人なるA氏の素人医学である。彼は自ら原始人を以て任じてゐるが、実は、近代的感受性と一種の唯物観とが極度にその生活を支配する趣味的ボヘミヤンの典型である。自ら帆走船を作り、フレムを工夫し、浴室を建て、マムシ酒を醸造し、家族の病気を診断し、手製の体温器を挟ませ、同じく手製のハカリを以て投薬し平然として快復を信じてゐる。種痘はペン先の古きを砥いで之を行ひ、注射の針は八回に及ぶも之を替へず、下痢止めには懐炉灰を飲ませ、細君のお産は三日目に床上げをさせるのである。
此のA氏は私が病院にはいつても、度々見舞に来てくれ、H博士に様々な医学上の建言をしてゐたやうである。
私は嘗て「奇妙な風邪」を引いたことがある。それは、台湾から香港《ほんこん》に渡る船の中である。当時の打狗《たかお》から香港まで、日本貨十円といふのが三等の賃金で、その代り、苦力《くりい》と同房の船底である。あんまりひどいと思つたが、我慢をすることにして、莚《むしろ》の上に寝ころんでゐると、その晩、忽ち悪寒を覚え咽喉がかわき体温を計ると四十一度ある。
船が厦門《あもい》に着く頃、とう/\一等に代る決心をした。ボーイの肩につかまつて、フラ/\と甲板を歩いて行く寝巻姿の私を、支那の苦力たちは笑ひながら見てゐた。
其処は一等船室である。莚の代りに、純白のベットがあり、花瓶には花があり、水差には水があり、もうそれだけで、私は気持が爽かになるのを覚え、頭は急に軽くなり、熱は三十六度代に下つてゐた。
香港に着く前には、甲板を大股に歩きながら、船底の熱病を忘れてゐた。
処で、面白いことには、初めから一等を買へば全部で三十円なのを、厦門から一等に代つたゝめ、支那銀で二十両支払はなければならず、当時の為替相場で、日本貨四十円である。かういふ種類の損害は何時までも記憶を去らないものと見える。
夜遅く巴里《ぱりー》の裏通を歩いてゐると、一種独特な臭気が、何処からともなく鼻をついて来る。それが多くは、冬または冬に近い季節の夜である。
私は、いまだに、その臭気が何物の臭であるか、わからずにゐるのだが、それは多分煙草のヤニと、牛の血と、バタの腐つたのと、洗濯物と、それらの混合した臭ではないかと思つてゐる。一口に云へば、それが巴里のかの有名な下水の臭かもわからない。
その臭も、日本に帰つてから可なり長く臭がないので、自然忘れてしまつたところ、近頃、ふとその臭を思ひ出したのである。思ひ出したといふよりも、その臭と同じ臭が
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