を茶番だと云ふかも知れない。茶番は笑劇で、フアルスである。フアルスは日本でこそ芸術的演劇の仲間入りはせられないが、西洋では、今日、立派に芸術的存在を主張してゐるものがあるのである。
同じく、「どん底」のルカといふ人物にしても、モスコオ芸術座あたりでは、モスコオフインの演技は、全く日本のそれと異り、あんな哲学者風な、聖人のやうな、達観したやうな、早く云へば理窟つぽい爺さんにせず、もつと剽軽で図々しく、そのくせ、おせつかいで、臆病で、口と腹とは違ふにしても、根は涙もろい苦労人といふ型に作り上げてある。従つて、もつとユウモアに富んだ、滑稽な人物である。「どん底」の舞台が、此の人物のさういふ性格以外に、全体としてもつと朗らかさといふか、呑気さといふか、さういふ露西亜独得の生活気分を漂はしてゐることは、誰が見ても分るのであるが、日本では、かの築地小劇場の傑れた演出を観ても、この点だけは、不思議に芸術座の演出と違つてゐる。あれはあれで一つの解釈であらうが、そこを、僕は、なんとかしなければならないのではないかと思ふのである。「どん底」の場合は、まあ、あれでいいとして、その調子が、どの脚本を演ずる場合にもついて廻るといふことは考へものである。勿論、築地小劇場ばかりについて云つてゐることではなく、新劇協会あたりでも此の弊は非常に多く、これが日本の新劇を救ふべからざる固苦しさ、窮窟さ、しめつぽさ、薄暗さ、に陥れてゐるのではあるまいか。
前にも何かの機会に云つたことであるが、日本のイプセン劇上演は、イプセンの微笑を悉く抹殺したと云つてもいい。
再び誤解を除くために云ふが、ここで微笑と云つたのは、極く広い意味で、明るさと云つてもよく、あたたかさと云つてもいい。要するに、翻訳劇なると創作劇なるとを問はず、舞台上のフアンテジイと、機智とを活かす作者演出者乃至俳優の感性は、教養ある見物を劇場に惹きつける最も鄭重な招待状であり、これを観客席に繋ぎ止める最も慇懃な接待法である。そして、これこそ、われわれが恋人のそれの如く渇望する舞台の笑顔である。
われわれは既に旧劇にも新派劇にも、此の笑顔を見ることは出来ない。笑顔を見せてゐるつもりかも知れないが、それは幽霊の微笑に似て、その凄みさへも感じられないものである。或は、どうかすると、田舎婆さんのもてなし然たる五月蠅さと気の毒さを感じることすらある
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