これで俳優の素質ということをざっと話しました。

     4 人及び芸術家としての俳優の理想

 これは俳優に限らない、社会のいろいろな部門で働いている人間が人間として、また同時にその働いている部門の職業人として、それぞれ一つの理想を持っている。この二つの理想を一致させるということが、この人間社会の生活に於て非常に重要なことであります。例えば、文学者ならば、文学者としての理想と人間としての理想とを一致させる。同様にまた俳優も、人及び芸術家としての理想を一致させるということが大事です。しかし、それはまた非常に困難なことでもあります。人としての理想はいうまでもなく、一般の倫理学で教えているように人格の完成であるが、芸術家としての理想は、独自な美の創造であります。人格の完成というのは、人間として生きて行くうえに、最も普遍妥当な徳を身に備え、自分の属している社会、国家のために真に役立つということです。
 芸術家としての理想は、自己の才能によって人間の感情に新しい表現を与え、現実の生活をより「美しく」することであります。道徳の善も結局は「美」に通ずるものでありますが、芸術は寧ろ「真なるもの」を追求することによって、美に到達する道です。人格の完成という場合に於ける道徳的善と、美の創造を目指す真の探求とが、芸術家としての生活に於てどう調和するかという問題は、なかなか厄介な問題で、昔からいろいろ論議されていますが、原則として、そこには決して矛盾はないと思います。それが矛盾するように見えたり、或る場合には、自分でその矛盾に苦しんだりするのは、いずれも修業の道程に於ける未習熟の結果であります。ただ、芸術家は、そういう現象をいい加減に胡麻化さないだけであります。俳優が一人の社会人として生活する、その態度のなかにもしそういう問題が起ったとすれば、それは先ず次のような三つの場合に限るだろうと思われます。
 第一に芸術家は真面目であるということと厳粛であるということとの区別をはっきり知らなければならない。真面目であるということは、例えば、人間としての過ちを犯さない為に、戦々兢々として日常の生活の細かい部分まで気を配って、苟くも人から誤解を受けないように言動を慎むとか、あらゆる慾望をできるだけ制して常に無難な道を歩こうと努力する、そのような態度が普通真面目といわれているので、人としてそういう態度を守ることは、これは道徳の上から別に非難の余地はない。むろん消極的です。しかし、努めてできることはこれくらいのことです。しかし、人間はある時は芸術家であり、ある時は政治家であり、事業家であり、兵隊である。いわゆる真面目さということだけが、その人の身上ではない。それよりも、もっと大事なことが人間にはあるのであって、俳優の場合に於てもそうである。日常生活の小さな部分にまで気を配って、ひたすら真面目であろうと努めるような、そういう努力は、これは芸術家として自分を伸すことではない。そういう生活によって、なお且つ、芸術家として自分を伸し得る人もあるかも知れない。これはないとは保証できないが、それはすべての人にあてはめてその人の為になるということは保証できません。これは道徳の話としては非常にデリケートな話で、よく私のいう意味を酌んでいただかなければならないけれども、少くとももっと積極的な、大胆な生活というものがある。当って砕けるという生活の中に、本当の芸術家としての自分を伸ばす途がある。しかもそういう生活が必ずしも道徳と矛盾する途ではないのです。ある時は道徳の埓外へ危く踏み出そうとすることがあるかもしれない。しかし、その場合に最も厳粛な態度というものが要求される。この厳粛な態度というのはどういうことかというと、その道徳の埓から万一一歩ふみ出した場合に、その責任を悉く自分が負う。その為に自分はいわゆる神の怒にふれることを覚悟しなければならない。それがただ口だけで、どんな罪でも引受けるといって大きな顔をするのではない。万一道徳の埓外に踏み出した場合、非常に激しい悔恨、非常に大きな苦痛をその人間は実際に味わなければならないのです。またそれが味えるような人間でなければ本当の芸術家ではない。そういう覚悟と良心をもって事に当り、生活を律するのには、大きな勇気がいります。この勇気が、高い意味に於ける道徳の追求である。そして、そういう生活態度が、即ち厳粛ということなのです。この辺は先程もいいましたようにデリケートな芸術家の生活の道でありますから、みなさんは今後の修業に於て、ただ単に芸の修業を心掛けるばかりでなく、芸術家としての心構えのうえで、十分想いをひそめ、みずからさとるところがなければなりません。
 もう一つは、一般の人は大体に於て控え目である。或はまた、地味にものごとをするというのが、
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