もっと人間の値打のようなものを結びつけることがあります。これが一番はっきり分るのは、利口な声と、馬鹿な声です。云っていることがなんであっても、その人の声によって、その人が利口か馬鹿か、ほぼわかる。これは恐ろしいことであります。或はその人が非常に考え深いか、或は軽薄か、そういうことが、声で大体見当がつきます。一例を挙げればそうですけれども、この声というものは、やはり子供の時から大人になるまで、或は年寄りになるまで、決して同じでない。段々変って来ます。しかも、その変り方がいろいろな条件で変る。風邪をひいて咽喉を痛めたというような一時的なこと以外、いろいろな条件で変る。年をとると、だんだん声も年をとりますが、年のとり方にいろいろある。人間の声は生活によって鍛えられ、或は荒らされる。鍛えられるというのは声を絶えず使うような仕事をしている人でなくても、自然に生活で鍛えられた声というのがある。充実した、立派な生活でも鍛えられるし、苦労と闘い、血みどろの生活のなかでも鍛えられる。いわゆる人間がしっかりしてくるのと比例して、声もしっかりして来ます。底力があり、頼もしい声です。年をとっても、苦労を知らない、或は苦労にひしがれた声は、それぞれ、明暗の違いがあるだけで、いずれも生の声と云っていいのです。
特別に声の訓練をしていない若い人の声は、全部が全部、生の声と云えます。俳優としては、舞台の上で台詞を云うのに、若ければ若いなりに、年配ならば年配なりに、鍛えられた声を持っているということは絶対に必要です。どんな俳優でも、段々舞台の上の修練が積むと、自然に声が鍛えられて来る。即ち舞台で声が通るということは、一面声の鍛えられた証拠です。しかし、それだけでは、まだ魅力ある声とは云えない。人間の味いがその声に加わらなければ、ほんとうの俳優の声とは云えません。どういう風にして人間の味いを加えるのかというと、いま云った充実した生活と、優れた教養による外はないと思います。生活によって鍛えられた声というのには、さっきも云ったように、いろいろありますが、教養によって味いをつけられた声というのは、殆ど一定の特徴があります。なんとなく深みがあり、力強いとは云えなくても、十分に圧縮された声です。声は勿論、声楽とか、和楽のいろいろな歌、長唄、義太夫、謡曲、そういうもので最も自然に直接鍛えられます。演説や講義のよ
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