二通りの働きをします。極くわかり易く云いますと、ものごとから受ける印象の度合が普通の人よりも、はっきりしている。ものごとの強弱や変化を鋭敏に感じとる、大概の人がぼんやり知らずに過すようなことを、ピンと感じる、あの働きを指すのです。感性は鋭敏で、且つ豊かでなければなりません。
――豊かであるということと、鋭敏であるということは少し違います。豊かであれば、たいがい鋭敏であるが、鋭敏ではあるが必ずしも豊かでないという場合もある。非常に鋭敏だけれども、その感受性は限られた範囲で、その範囲に於てはその人の感受性は鋭敏だ。しかし非常に貧しい、豊かでない。だからその限られた範囲外ではその人の感受性は存外鈍い、という場合がある。感受性は豊かで同時に鋭敏でなければならない。知力、或は知性、というものに対して、感受性は全くそれと違った働きをする、ものごとを感じとる力です。しかし感受性と云えば、所謂受身になる。いわゆる感性と感受性という言葉はどっちもセンシビリティの訳語ですけれども、感性を感受性よりも少し意味を広く私は解釈したい。何故ならば、一方の感性ということはものを感得する、味得するというような場合に働くだけでなく、ものごとを表現する場合にも働く。自分で或る事柄を現わそう――云い現わそう、或は身振でそれを人に見せよう、という場合にも、感性というものは働くものです。ですから受身になって或る事柄を感じて受けとるという場合でなく、或ることを現わすという場合にも、感性というものが非常に大事なのです。それはどういう風に働くかというと、自分が示そうとしていること、現わそうとしていることが、目的どおり適切で正確であるかどうかということ、そういう度合を微妙に感じる力、それを瞬間に規整する力です。
例えば、ここで泣き真似をする。如何にも本当に泣いているようにみせようとする。本当は泣いていないのだが、冗談に泣いているというのがある。よく誰でもふざけてやることですが、そうでなく本当に泣いてる真似をする。これは俳優の演技としてはやさしい、やさしいというより寧ろ一番単純なことです。物真似ということは、俳優の演技の一番原始的な部分です。その泣き真似をここに持って来る。その時には、自分流の泣き方以外に、いろいろな人の今までの泣き顔を頭に浮べる。いろいろな人のいろいろな泣き方というものをこれまでに見ている。
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