の仮感に訴える、そういう職業なのです。
 この定義めいたものは、俳優芸術というもののごく根元的な純粋な形を先ずここに引っ張り出して、それに与えた定義なのですが、しかし、そういう精神が次第に失われつつあるということが一方にある。その失われつつあるということは、今日の俳優というものに対する一般の認識が非常に誤ってきた原因であります。いずれその問題に付いては最後に話しますけれども、俳優の理想というものは俳優の本来の姿を取戻さなければいけない。現在おかれているところの、現在あるがままの俳優の姿というものは非常に歪められた、また一方からいうと、非常に変質的になっているものなのです。これに注意しておきます。
 さっき現実の仮感という言葉を使いましたけれども、この仮感という言葉はこういうことです。わかり易い例をあげますと、最も単純な芸術の形態で最近発達したものにラジオがあります。ラジオでは一つの物語なり、或はラジオ・ドラマなどをきかせますが、ラジオは元来声だけできくものである。音響だけを頼りに一つの現実にふれる訳です。それ故、一面からいえば、ラジオ・ドラマというものは、音の効果、或は声の効果というものだけを使って、そこに一つのものが仕組まれたように考えられている。しかし実際はそうではない。もし単にそういうものであれば、ラジオ・ドラマというものは非常に単調で味いの浅いものになります。むしろ、それ位ならば純粋の音楽をきいている方がいいようなものです。ところが、ラジオ・ドラマというもの、つまり人間が肉声によって一つの物語を伝えるということは、必ずしも耳だけに訴える感覚ではなくて、同時に人間のあらゆる他の感覚、殊にラジオで一番縁の遠いように思われる眼の仮感というものに訴える要素が十分なければならないのです。つまり、声をききながら、ものを見ているような視覚、眼の仮感に訴えることが第一番です。ある女の人の声をきく。ラジオですからその女の人は勿論なんにも見えない。しかし、その女の人の唇の動き、その唇の間から見える歯のならび、その女の人の息づかいから感じられる鼻の微妙な動き、声の調子から考えられるその人の眼つき、そういうものが仮感として、聴いているものの脳裡に浮び出て来なければいけない。そういうようにラジオ・ドラマというものは書かれているし、また語らなければいけないのです。だから耳に訴える要素だ
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