たその素質に於ても劣っていて、しかも偶然のいろいろな機会に恵まれて、一躍スターになったような俳優が、サラ・ベルナァルを真似すれば、それは滑稽以上のものではない。周囲のものは、蔭で舌を出して笑っていることでしょう。そういう光景も私はやはり見ております。
 大体これで皆さんに話しておきたいことは云い尽しましたが、もう一つ附け加えますと、職業人としての誇りと嗜みというなかで、いわゆる、役の軽重という問題についてお話したいと思います。
 よく芝居なり映画なりで、役が軽すぎるとか小さすぎるとかいうので、役者がぶつくさ云う話を聞く。勿論どんな人でも、自分の演ずる役が、脚本の中で重大な役であることは嬉しいでしょう。他の人が重要な役をつとめて、そうして自分とそれ程才能も違わないと思うのに、自分の方が小さな、いわゆるつまらない役をやるということは、その俳優にとっては幾らか自尊心を傷けられるように感じられるかも知れない。その不満を公然表明する。そこで役が揉めるということになる。これは恐らく芝居始って以来、興行者、或は演出家が、この俳優の役もめには手を焼いているのであります。一般から云っても、今日まで少しもこの風習は改まっていない。ただ新劇だけが殆どその風習を改めました。これもただ、そういうことをしてはならないのだという自戒で、自分を戒めて悶着を起さないだけで、内心はどうかわかりません。まだそこまで保証はできません。が、とにかくこの種の悶着は新劇ではなくなりました。経験も古く、技倆も上だというような俳優が、時には脇役を演じ、或は端役に廻る。それが新劇では一応無理なく納っています。所謂スターシステムの弊害を認め、適材適所の原則が配役の根本であることを認めたからです。この役の軽重という問題を、ひとつなんとかして、俳優諸君が自分の納得の行く理窟と感情とで解決しておかなければならない。理窟はもうはっきりしています。感情の上では、これがいかに人情とはいいながら、さもしい人情であるかを反省すればいいのです。本当に芝居という芸術を愛し、これに全生命を捧げることができれば、そうしてこの仕事に最も必要な「全体の効果」ということをよく呑み込めば、自分に振り当てられた役割を、それがどんなものであろうと、完全に生かすことの喜びと誇りが、一切の情熱をかり立てる筈です。役不足は、多くは人間としての、又は芸術家として
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