俳優教育について
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)国立演劇学校《コンセルヴァトワアル》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|物言ふ術《ヂクシヨン》

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(例)[#ここから2字下げ]
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 あらゆる芸術の分野に於て、誰かが、自分こそは独自の道を歩いてゐる――何人からも、教へられるところはない――模倣は生来自分の性に合はない――と広言したならば、その人間はたしかに、自分の世界をせばめてゐる。その意気や壮なりと雖も、甚だ「子供臭い」と云はなければならない。
 現代の日本劇作家中、誰が「人の真似」をせずして、戯曲に筆を染め得たらう。真似といふ言葉を使ふのは、必ずしも嫌やがらせではない。誰の真似をしたと云はれれば一寸困るかもしれない。それだからと云つて、それが誰の真似もしないといふ証拠にはならない。実際、われわれは、色々の人の真似をしてゐるのである。殊に、われわれは西洋の作家の真似をしてゐるのである。或は西洋の作家の真似をした日本作家の真似をしてゐるのである。初めは、猿真似にすぎなかつた。近頃は、だんだん上手になつて来た。真似をしてゐるやうには見えなくなつて来た。しかし、どこかまだ「もの」になつてゐない。それは、真似られるところだけ真似て、真似られないところが「どうもしてない」からである。すつかり真似たつもりでゐても、「それはさういふ風に真似るのではない」といふところがまだあるのである。
 それは何故かと云ふと、今まで度々云つたことであるが、お手本がよく解つてゐないのである。勿論、程度の差はあるが肝腎な処から先が、よく呑込めないでゐるのである。西洋の作品を――それが戯曲であるがために――読みこなせないでゐる。訳しこなせないでゐる。その、好い加減に解つた頭で、時によると、とんでもない解り方をした頭で戯曲を書く。それが、お手本と違はない程の出来栄えであると信じ得たにしても、それは、お手本まではまだまだといふ代物、時によると、お手本とは似てもつかぬ代物である訳なのである。
 それでもまだ、戯曲の創作には、まがりなりにもお手本がある。多少とも「教へられるところ」がある。然るに、俳優の演技に至つては、仮令、外国に渡つて外国の名優が演じる舞台を見、なるほど、ああやればいいの
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