美談附近
岸田國士
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)含嗽《うがひ》を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)進退|谷《きは》まつて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\
−−
両袖献納
一
川村節子さんは、未だ嘗て、人のせぬことをしたことはなかつた。それほど、目立つことが嫌ひであり、異を樹てるといふことに趣味はなかつた。
ところが、たつた一つ、今度といふ今度は、人のせぬことを、ついしてしまつた。夫の周作が不機嫌な顔をするのも無理はない。
それは、新聞に、婦人の標準服といふものが図解入りで発表された、その日、川村節子さんは、式服を除いて、持つてゐる着物全部の両袖を切つてしまつたのである。
二
もう取り返しがつかぬ。
家にゐる時はともかく、毎日買ひ物に出歩くにも、隣組の常会へ行くのにも、また、ちよつと親戚を訪ねるのにさへも、誰も着てゐない筒袖を着なければならないのである。
初めのうちは、なるべく外へ出ないやうにし、そのうちにみんながさうなればと、その時を待ち暮したが、一向世間はさうなるやうに見えない。
切つた袖は、幾枚も、丁寧にほどいて、火熨をかけて、畳んで、蜜柑の空箱にしまつてある。
川村節子さんは、火熨をかけながら空想した――きつとこの両袖は、全国のを集めて、何かお国の役に立つ用途が考へられるに違ひないと。ふと「両袖献納運動」といふ言葉が頭に浮んだ。さういふ運動が、どこかの発議できつと起りさうな気がした。
しかし、何時までたつても、さういふ運動は起りさうになく、ただ人がぢろぢろと、自分の風変りな恰好を眺め、なかには、女仲間で薄笑ひを浮べた顔も目につく。
いつたい、どういふわけで、した方がいゝことを誰もしないのだらう?
「みんながする時にすればいゝんだ」
と、夫の周作は、当り前のことしかいはないのである。
三
川村節子さんは、常会でちよつと希望を述べてみたことがある。それもさうだが、この組だけでやつてもはじまらぬといふ大方の意見で、あつさり片づけられた。
新聞に投書をしてみようかとも思つた。夫に叱られさうである。川村節子さんは、たびたび、箱の中で切られた両袖がひそひそ話をしてゐる夢をみた。彼女の志はそれらの両袖に籠つて、今や脾肉の歎をもらしはじめたのであらう。
川村節子さんは、毎朝毎夕、新聞をひらいて「両袖献納」の文字を探してゐる。
アメリカ人形
ある地方の国民学校の校庭である。全校の生徒が円陣を作つてゐる。
その真ん中に、枯枝と落葉が一と山、焚火でもするやうに積まれてゐた。
国旗が空高くはためいてゐる。
校長先生を中心に、先生たちが厳粛な面持でその左右に控へてゐる。首席先生の手には、硝子箱入りの人形が青い眼を光らせてゐた。
校長先生の声は、時々北風にあふられて聞えなくなる。しかし、生徒たちには、話の本筋はよくわかつた。米、英は憎んでも余りある日本の敵である。われら神州に生れ、正義の剣を抜いて、今や、傲慢無礼なる彼等米、英人をこの地球から追ひ払はうとしてゐるのである。由来、アングロサクソンは、鬼畜の如く、悪魔の如く、時には慇懃、紳士の仮面を被つてわれに近づき、時には海賊ギャングの正体を現はして、わが周辺を脅かす。かのペルリが下田を訪れたのも、表面は親善を装ひながら、深い陰謀を秘めてゐたことは事実であり、近くは、同じ米国が、わが少国民を手なづけようとして贈つたのが、諸子の面前にあるこの人形である。
かういふ意味の前置きをして、さて、
「この人形の処置について諸子の意見を徴したところ、毀してしまへといふのが二百四十三、海に投げ棄てよといふのが三百十八、送り返せといふのが三、焼いてしまへといふのが三百二十一、それから、どこか見えないところへしまつて置けといふのが一、そこで、大体の意見としては、この人形を死刑に処するといふことにきまつたわけである。先生がたもみなこの意見に賛成せられたから、今日、此処で、全校の手によつて火焙りの刑に処することにした。不倶戴天の仇、米国の末路はかくの如きものである。高等科二年の加藤、その薪に火をつけろ」
呼び出された高等二年の加藤壮一は、静かに列を離れて枯枝の小山の前に立つた。先生の一人が差し出すマッチを、ちらと横目で見たまゝ、受取らうとしない。
「校長先生」
と、彼は、喉の裂けるやうな声で叫んだ。
「御命令なら、私は火をつけます。たゞ、一と言、申上げたいことがあります。
この人形は、十年以来、この学校に住み、われわれと共に教へを受け、日本人の心を心とし、日本の有難さを知り、再びアメリカへは帰らない、この土地のものになつてゐる筈だと思ひます。われわれは、一人のアメリカ人も、皇威にまつろはぬ限り、生かしては置きません。しかし、十年間、日本の学校にゐたアメリカ人形を、日本の味方にすることができなかつたとあつては、われわれの罪こそ、まさに死に値すると思ひます」
校長先生は眼をつぶつて考へてゐた。
アメリカ人形は、焼かれなかつた。
担架
防空訓練が始まつた。
筒井莞爾君は生来の病身で、会社勤めも早くから罷め、現在は、細君の稼ぎで生計を立てゝゐる有様である。細君は、それゆゑ、結婚後歯科医の免状を取つたほどの夫想ひであつた。
「ご近所ではあなたのことはみんな知つてらつしやるんだから、家にじつとしてらつしやい」
夫の古ズボンをどうやらモンペ風に直して、それをキリヽとバンドで締めたのが、女群長さんの健気ないでたちであつた。
「しかし、寝てるわけぢやないから、さうはいかんよ。監視係ぐらゐは勤まるだらう」
「いゝえ、また熱が出るから駄目……」
いつも同じことである。細君が、最後の患者に含嗽《うがひ》をさせ、手術着を脱いで出て行くと、その後から、きまつて、筒井莞爾君は、国民服に脚絆を巻いて、見学に出掛けて行く。
訓練はだん/\激しくなり、本格的になつて来た。女軍の奮闘は特に目覚しかつた。濡れ筵を盾にして燃えさかる焼夷弾に突進するお向ひの奥さんは、薄化粧の頬に決死の色をみせてゐた。
いよ/\、負傷者を救護所へ運ぶことになつた。急造の担架が用意され、腕つ節の強さうな二人が選ばれた。強さうなといつても、女は女である。腰を屈める形もまことに優美である。
負傷者が指名される段になつてみんなが今度は、尻ごみをした。手を放されたらおしまひといふ危険がある。
「僕ぢやどうです」
と、この時、筒井莞爾君は、意気揚々と名乗つて出た。
女たちは、互に顔を見合はせた。
「なんにもお役に立たないから、それくらゐのことでもさせて下さい」
彼はもう、担架の上に長々と寝そべつた。
一、二、三で、担架は宙に浮き、弾力ある繊手を背中に感じながら、筒井莞爾君の両眼は晴れた青空の下を滑つた。
街筋は、ものみなが動いてゐた。警防団の制服が右往左往し、ホースが水を吐き、屋根が揺れ、梢は踊つてゐた。
筒井莞爾君は、これが若し、演習でなく、ほんたうであつたらと思つた。
遠く、飛行機の爆音が聞えた。
重傷者の役は、これは訓練にははいらぬと、彼は、はじめて気がついた。
さうでなくても、病弱の悩みは、筒井莞爾君の朝夕の悩みであつた。その悩みが、この訓練の担架の上にもあつた。
雲ひとつない空の一角に、キラリと銀翼が光つた。蜻蛉のやうな三機編隊の、まつしぐらに帝都を襲ふすがたと見えた。
筒井莞爾君は、右手を縮め、左手を差出し、肩に銃を当てゝ狙ふ真似をした。先頭の一機にぴたりと照準をつけた。そして、口の中で、ズドン、ズドンと敵機撃墜の「役目」を引受けた。筒井莞爾君の眼は怒りに燃えてゐた。
遠足
「これで約束の時間に間に合ひますか」
「さあ、ちよつと怪しいな、もう少し急がう」
「地図つてやつはどうも当てにならん」
「地図の方でもさう云つてるよ。医者と地図とどう関係があるつて……」
「それにしても、この辺は人家がなさすぎますね」
「人家無きところ患者あるべき道理なし」
めいめい思ひ思ひのいでたちながら、相当歩くことを覚悟で、××市を今朝発つて来た一行である。医者が二人、新聞記者が一人、国民学校の先生が一人、それに若い女性一人、看護婦である。
峠へさしかゝつた。遥か彼方から同じ道を国民服の二人連れがこつちへ登つて来る。
「ご苦労さま。だいぶ暇どれましたよ」
「もう準備はいゝんですか」
「みんな集つとります」
迎への二人はこの村の訓導と青年団員である。この村は、無医村なのである。
国民学校の教室が診療室に充てられ、老若男女、凡そ病めるものすべてがそこに集つてゐた。
新聞記者のA君が、まづ挨拶をした。
「両先生を御紹介します。こちらが××病院副院長B博士、こちらが××県医師会評議員、眼科のC先生です。特にお断りしておきますが、両先生はもちろん、われわれは決して慈善行為をするつもりはないのであります。病気の治療ができない方が一人でもあるといふことは、お国のために非常に心配なことです。この村にはお医者がゐない、そこで、手のあいてゐる医者が代り代りに来て、患者をみてあげよう、それは医者として当り前なことだ、今度は自分たちが、日曜を利用してひとつ出かけよう、かういふ軽い気持で来られたのであります。しかしです。私はこの一行に加はつて、両先生をみなさんにお引合せする光栄を得ましたについて、何よりもうれしいことは、両先生のさういふさつぱりしたお気持と、この村の村長さんはじめ、村民の方々の、かういふ仕事に対する十分な、ご理解とが、ぴつたり一致して、今後この村から病人を一人も出さないやうにといふ望みが、今、こゝに満ちてゐる春の日射しとともにお互の胸に湧き起つてゐるのがはつきり感じられることであります」
その日の暮れ方ちかく、一行は山を降つた。
「この遠足は、しかし、ちょつとしたもんだつたね」と、B博士は感慨深げに云つた。
「ちよつとしたもんだ。ところで新聞に出す手は絶対にないな、医師会の半分が動き出すまでは……」と、C先生は応じた。
次男
鳥居朝吉君は弟の手紙を繰返して読んだ。
弟は郷里の中学を終へ、高等学校の試験に通つてゐながら、進んで現役志願をして満洲へ渡り、守備隊勤務に服してゐる間に、病を得て内地の病院へ還され、そこで除隊になつて現在は父母の膝下で静養をつゞけてゐるのである。
[#ここから1字下げ]
――からだの方はだいぶんよくなりました。兄さんが結婚されたことをハルビンで聞いた時、僕はこれでもう安心だといふ気がしました。それがどういふ意味か、兄さんにわかりますか。僕は家のことを考へたのです。北満の空は暗雲に覆はれてゐました。僕はいつでも死ぬ覚悟でゐたのに、やつぱり、家を出てゐられる兄さんのことが気がかりでした。ところで、今、かうして家に帰り、少し気持も落ちついて来て、自分の将来のことをあれこれと思ふのですけれども、これは実に不思議な変りやうです。ご承知のやうに、僕の宿望は博物研究です。肩書で云ふならば理学博士です。高校、大学といふ課程は当然踏まなければならぬと思ひ込んでゐたのです。それが、一旦、生死の境を越えて来た僕にとつては、まつたく他愛ない妄想に過ぎなくなりました。僕は、この郷土を離れたくありません。この古びた陰鬱な屋敷が、僕の魂をまだ育てゝくれるといふ気がするのです。そこには、僕の志と一体になり得る光明があることを、やつと発見したのです。家が百姓でないことは残念ですが、土地の人々の表情は僕に冷やかでないばかりでなく、僕の態度ひとつで、それが熱烈に燃えあがる何ものかを包んでゐることがわかりました。僕はおやぢの後をついで竹細工をやります。そして、段々に動植物の本を読み、実地の観察を丹念にやり
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング