さで十分に感動することができる」といふただ一つの真理を発見したと云つてゐながら、文楽を観た後、「本物の芝居など必要はない」と思ひ、「それまで自分が追つてゐたものは、演劇といふものではなかつた、とはつきり悟つた」さうだが、これはどういふものか? お説の通り、歌舞伎に限らず、芝居といふものの本質は「形」――「観念の文字通りの形象化」――眼と耳を通じて心に愬へる韻律の美に外ならぬので、この「形」の魅力は、氏が能楽によつて経験された「芝居小屋」の印象と深い関係がある。のみならず、氏が文学そのものとして評価するチェエホフの戯曲の美学であることを注意したい。
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「演劇とはなにをおいても先づ文学でなければならぬといふことが、近代劇の最大性格だと考へてよい」といふ小林氏の言葉は、真船氏の「今日、われわれの云ふ戯曲といふものは、あくまでも第一義の文学であつて、いかなる意味に於ても決して劇場台本ではない」といふ言葉と共通した意味――寧ろ信念を含んでゐる。
これも実は、ひと通り議論ずみの問題で、劇場人に云はせれば、はいさうです、では済まされぬだらう。千田氏が、一
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