てゐるといふ、極く要点だけをかい摘んで簡単にお話します。元来能狂言にしろ歌舞伎にしろ其の研究には相当の時間を費さなければならないほどの材料があります。それをたつた五分か十分でお話するのでありますから、どの程度の事が皆さんの頭の中に入れて戴けるか疑問でありますけれども、恐らく何かしら其の入口を指示することが出来はしないかと思ひます。先づ能狂言と云ふのは、日本に於ける本格的な演劇と云ふものが完成された其の最初のものであります。本格的な演劇とはどう云ふものかと云へば、詰り戯曲のテキストがあつて、それに依つて俳優が舞台の上でそれぞれの役を演ずると云ふ形式の備はつたものであります。能狂言はさう云ふ形式のものが日本にできた最初のものであつて、能と狂言とは同じ舞台で演ぜられました。併し其の劇としての内容は全く趣を異にして居りまして、恐らくこの能と狂言とはその起源が可なり前から分れてゐたものと思はれます。能と云ふものは楽劇式、音楽を使つた芝居、楽劇式の芝居で悲劇である。狂言の方は仕草で以て演ずる喜劇であります。之は双方共それを作つた作者もまたそれを演ずる役者も別でありまして、丁度之は西洋の古典喜劇と古典悲劇の作者と役者が違つてゐるのとよく似て居る。能の方は謡曲と云ふ戯曲のテキストがあつて、さうして其謡曲と云ふのは歌はれる様に書かれてあります。之が型と云ふ役者の所作、それから囃しといふ音楽を伴ひ、全く外の劇場の舞台と違ふ能舞台といふ特殊な舞台で演ぜられる一つの楽劇であります。狂言といふのは其の言葉の由来に色々説がありますけれども、元来筋道の立たないといふ意味をもつた言葉です。之は能狂言の発生以前から行はれて居る猿楽といふ舞楽がありますが、其の流れを汲んだものであつて滑稽と諷刺とからなつて居ります。能の方は一種の文章体で殊に韻律を主とする、謂はゞ散文詩の形で書かれてあるのに反して、狂言の方は専ら其の時代に用ひられた普通の言葉で書かれて居ります。従つて写実的な要素が多く、武家、大名の私生活を描いてゐることが狂言の特色であります。今日能狂言は東京で殆ど例月やられて居りまして非常に盛になつて居ります。日本に来て代表的な芝居を見るといふので能をよく観る人があるのでありますけれども、大体能を見て居ると眠くなる。眠くなる様に仕組まれて居る芝居の様に考へられるのでありますが、之は実際時代の隔たりと、
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