在の新劇を謳歌するつもりはありません。また歌舞伎劇新派劇を故ら排撃しようとも思ひません。何処からどう生れるにもせよ、現代には現代の演劇が必要なのでありまして、われわれは、芸術家として、やれ写実主義だとかやれ浪曼主義だとか、又はもつと新しい様々な近代主義的傾向に、それぞれの立場を結びつけてゐるに相違ありませんが、新劇の実際を考へますと、これは最早、芸術運動といふよりも、寧ろ一個の文化運動であるといふ信念が湧いて来るのであります。
 以上、甚だ悲観的なことばかり申したやうでありますが、新劇も既に、年三十であります。そろそろ、分別もつき、身を固める覚悟もできて来ました。最近の一二年を境界として、戯曲の方面では、特に著しい「現代性」が見られ、有望な新作家が、それぞれ特色ある本質的な才能を示し初めたことを注意したいと思ひます。内容の上からも、表現の上からも、「新時代」が感じられます。たゞ、この上は、それらの作家に、よい舞台を提供したいと思ふばかりです。
 それでは、どういふ点が演劇として「新時代的」であるかと申しますと、例へて云へば、声の出し方が違つて来たといふやうなものです。義太夫で鍛へた声と西洋風の声楽で鍛へた声との違ひとでも申しませうか。別に、今日の所謂尖端的傾向を取入れてゐるとか、大胆な思想を含んでゐるとかいふ意味ではありません。早く云へば、西洋の芝居を何んとなくよく飲み込んで、それを巧に消化し、現代日本人の生活を透して、十分にこれを演劇化してゐるといふことです。歌舞伎劇乃至新派劇の伝統から全く離れ、しかも、西洋劇の表面的模倣を脱し得るといふことは、なかなかの難事であります。新劇がさういふ時代に到達したことを、多くの批評家もまだ指摘してをりません。皆さんのお耳にも、従つて、まだこの消息は伝つてをりますまい。今夜、この機会に、はつきり申上げておきます。舞台は文学に遅れること二十年と相場がきまつてをります、が日本ではそれほどの距《へだた》りがなくてすむかも知れません。皆さんが多分、スペクタクルとして今日唯一の満足を得てをられるであらう西洋映画の魅力は、映画専門家の如何なる技術にも拘はらず、西洋演劇の既に示して来た魅力に負ふところが大であることを私は信じるものでありますから、そのうちに一人のベルクナア、ハーバート・マアシヤル、リイヌ・ノロ、又はデトリツヒに匹敵する現代俳優が
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング