英吉利を愛する愛し方のなかには、日本人にはないものがある。自惚れでなく、まつたく、惚れ込んでゐるところがある。伝統が生きた力になつてゐる強味である。が、そのために、当代の復古主義を歓迎する気は毫もない。そんな運動は、どこの国でも度々繰り返され、それ自身なんの役にも立つてをらぬ。要するに、文芸復興《ルネツサンス》が早く来たお蔭である。日本には、やつと、今年来た。
最も心を寒くするものは、不真面目な大学生の氾濫である。不真面目は勉強をせぬとか、カフエエに入りびたるとかいふことばかりでない。なにはともあれ、秩序の何ものであるかを弁へぬことだ。学生生活でその訓練を怠るところから、日本国民の野蛮性が上下を風靡するのである。自由によつて秩序を生み出す能力は、大学に於いてのみ養はれることを一日も早く彼等に知らしめたい。
官尊民卑の思想についていろいろの人が云ひ出した。これはわが国の社会的弊風であつて、それを弊風と気づき、批難攻撃するもののうちに、なほ、官尊民卑的気質を反映してゐる場合が多いのはどうしたわけか。「官」のなすところ、悉くこれに反対するといふのは、もつと文化の一般水準が高まつた時にこそ、意義のある(或は威勢の好い)ことである。現在日本のやうに、芸術も科学も、更に文学でさへも、アカデミスムの恩恵によつて近代的洗礼を受けた事実を目の前にして、アカデミスムの否定に急なるは甚だ偏狭で、幼稚な考へ方である。現代日本の選ばれた人々は、もう暫く辛抱して「官」を利用し、誘導し、為すべきを為さしむべきである。アカデミスムに対する恐怖は、期待の大き過ぎるところから来るので、これこそ官尊民卑の思想である。アカデミスムはある時代の役割を果せばいいのである。アカデミスムの樹立以前に、アンデパンダンの発展を望むが如きは、文化の推移の法則を無視したものである。「官」は「民」のために、「民」によつて存在するといふ確乎たる事実を、官吏はつひ忘れたがるものであり、この職業的関節不随の症状を、さう絶望的に考へなくてもいい。なにをやり出すかわからんのは誠に困つたものだが、なんにもさせずにやるかやるかと待つてゐるより、まあなんでも註文をつけてやらせてみた方がいいのである。きつと悪いことをするだらうといふ猜疑心が、これも無理とは云はぬがちつと強すぎて、どうせさう思はれてゐるならと、不貞な夫のやうな考へを起させないでもない。官民互に相信じ合はないこと(或は信じ合へないこと)は前にも述べたやうに、日本国民にとつて、現代の憂鬱の一つである。
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こんなことを書いてゐるときりがないからもうやめる。
武田君には至極平凡な、大へん長つたらしいものを読ませることになつて相済まぬが、どうか許して下さい。殊に最後の一項は君の顔が目の前に浮んでゐるので、つひこんなにくどく書いたらしい。君の「愛国心」が何を語るか、僕は、それを聴く前に、もうわかつてゐるやうな気がする。がしかし、その言ひ方がどんなであるか、大いに楽しみである。(一九三六・八)
底本:「岸田國士全集23」岩波書店
1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
1936(昭和11)年11月15日
初出:「文学界 第三巻第八号」
1936(昭和11)年8月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年3月18日作成
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