い話が、今日までの新劇の舞台は、あまりに「新劇的」であり、「新劇愛好者」向きであり、新劇専門家の「ミソ」が多すぎ、普通の人間では、その芝居のどこが面白いのかわからぬといふ場合が多かつたのである。
築地小劇場に於て最もその例が甚しく、その余波を受けて「大衆的」と標榜する諸種の新劇団――「新東京」にしろ、美術座にしろ、テアトル・コメディイにしろ、殊に、演劇集団の名に於て試みられた一、二回の興行は、その悪弊を露骨に示してゐた。先日、新宿松竹座に「にんじん」なるメロドラマ(?)を観たのであるが、さすがに演出者としての村山知義君の才気を窺へはしたが、これが、凡そ「新劇的手法」のおさらひのやうなもので、あつけにとられてゐる見物が多かつた。村山君の意図は恐らく別にあつたのかもしれぬが、結局、啓蒙運動としてはお粗末であり、大衆劇としては専門家すぎると私は思つた。新鮮にして且つ普遍性をもたせるといふことはなかなか困難な仕事であるが、新劇の前途のために、われわれは功を急いではならぬと思ふ。(後で聞くと村山氏の関知せざるものだとのこと)
作家のうちの「専門家」は蔭にかくれて、俳優の「新劇趣味」を封じ、悪写実に陥らず、社会各層に亘る人物の典型をクリエエトできねばならぬ。実業家に扮したら、面白い実業家に、大学教授に扮したら面白い大学教授になれるといふのは、単に柄だけの問題でなく、実業家の実業家たるところ、大学教授の大学教授たるところを、観察と想像によつて捉へる修業――これは、第一に、俳優としての教養の問題であると思ふ。
今日の日本の俳優(新劇を含めて)を通じ、所謂「上層知識階級」の人物に扮し得るものは一人もない。同時に、所謂「山の手ブルジョワ」を観察してゐるものも絶無である。軍人も駄目、外交官も駄目、代議士も駄目、ハイカラな社交婦人も慎ましい家庭の主婦も駄目、ああ、これで芝居が出来るであらうか。年齢のせゐもある。が、それよりも、生活が狭すぎ、教養が乏しく、観察の力が足りないのである。つまり、演技に「普遍性」がない原因である。見物は学生ばかりといふ現象はここから生じる。
日本の文学も、やはり、今、この点で、いろいろ打開策が講じられてゐるといつてよろしい。作家は、何が自分の作品を狭くしてゐるかを考へねばならぬ時である。「狭い」がゆゑに「高い」といふ迷妄を破らなければならぬ。狭いといふこと
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