前で、踏みにじらうと思ふの……。それでアイコぢやないの。でも、あたしは、あんたのやうに、自分を信じることができないから、同情してくれればしてくれるだけ、うれしいと思ふわ。もちろん、他人からぢやなくつてよ。あんたからよ。妹のあんたからよ。あたしは今、眼の前が真つ暗なの。あんたにだつて、ああしろかうしろつていふことはできないかも知れないけど、とにかく、力をつけてよ。倒れさうになつたら、手をかしてよ。後生だから、希望があるうちは、その希望の方へあたしを向け直してよ……。
愛子  …………。
悦子  どう、約束してくれる? 云つても無駄ぢやないつてことを感じさせてくれなきや、あたし、勇気がでないわ。
愛子  とにかく話してみたら……? あたしで、出来るだけのことはするわ。ただ、その前に、これだけのことは云つとくけど、姉さんが重大だと思ふことを、あたしはそれほどに思はないかも知れないわよ。そん時、同情のしかたが足りないなんて云つちやいやよ。
一寿  (珈琲を珈琲つぎに入れながら)二人ともお代りはいらないか?
愛子  いらないわ。ぢや、云ひなさいよ。
悦子  頼りないなあ……。でも、思ひ切つて云ふわ――愛ちやんを悦ばすと思つて云ふわ。
愛子  (ぴくりと眉を動かす)
悦子  あたし、実は、学校のある男の教師と、三年前から、愛し合つてゐたの。むろん、周囲がうるさいから、絶対誰にも知れないやうに注意してたわ。それはまあ、うまく行つたの。
愛子  …………。
悦子  ところが、去年の夏頃から、ふつとした機会に、もう一人の男の教師と度々話をするやうになつて、別にそれはなんでもないんだけど、ほら、前の男が妙に気を廻しはじめたの。初めはただ、そんなこと弁解するのは馬鹿々々しいぐらゐに思つてたわ。嫉妬つて恐ろしいもんね。たうとうしまひに、人前であたしの方をにらみつけたり、二人きりになると、めそめそ泣いたりするやうになつて来て、いくらわけを云つても承知しないんでせう。こつちもうるさくなるわ、しまひに……。勝手にしろつていふ気になるわ。それで、その結果が、まつたく、思ひがけない方向へあたしを引つ張つてつたの……。それまで何でもなかつた相手と、冗談みたいにして離れられない関係ができちまつたのよ。今から思ふと、なんだつてそんな向ふ見ずなことができたらうつて気がするんだけど、もうしかたがないわ。あれで
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