あれ、驚いた、あたし……。
一寿 驚くことはないさ。お前だつて、亭主を持つたらおんなじこつた。
悦子 違ひますよ。いくらなんでも、かういふ(頸と肩とを同時に寄せて行く科《しな》を作つてみせ)真似は、あたしにはできつこないわ。あんな恰好、何時の間に覚えこんだか、訊いてやらうか知ら……。
一寿 また、また! お前も近ごろ、ずばずば云ひ過ぎるよ。あいつはあいつでいいぢやないか。わしも、お前も、あいつの世話になつてるわけぢやなし、苦労はめいめい、有り余るほどもつてるんだ。それみろ、お前は痩せたぞ、この節……。
悦子 云はないでよ、それ……。自分にもわかつてるのよ。どこまで痩せてくか、黙つて見てて頂戴よ。これで、どうにもならないんぢやないの……。
一寿 苦にしちやいかん、苦にしちや……。人生は、ひらりとからだをかはすものの勝利だ。神谷をみろ、神谷を……。あいつが、からだをかはし損つたのは、細君だけだ。そのほかのことは、こいついかんとなつたら、その場で、なんの躊躇もなく、ひらり、ひらりだ。わしもそいつを喰つた一人だ。ああなくつちやならん。どうしたんだ、え? 妙に沈んじまつたぢやないか?
悦子 あたし、お水一杯ほしいわ。汲みたてない?(一寿が起たうとするのを止めて)いいわ、いいわ、あたし、行つて飲んで来るから……。コツプ貸して……。(戸棚へ行つて、自分でコツプを出す)
一寿 わしが持つて来てやらう。
悦子 いいのよ、さうしてらつしやいよ。
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悦子は、幾分重い足取りで廊下に出る。一寿はぽかんとそれを見送つてゐる。やがて、起ち上つて、蟇口の中を検める。紙幣が二三枚小さく畳んで入れてある。チヨツキのカクシに指を突つ込んで、小銭をつまみ出す。ちよつと考へる。が、別に何も気がついた風は見えない。
十二時の汽笛。
悦子が、帰つて来る。顔が蒼ざめてゐる。
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悦子 おうお、寒い。
一寿 さあ、あたれ、あたれ……。(椅子を一脚火鉢のそばへ引寄せてやる)
悦子 おらくさん、どうしてます?
一寿 うむ?(聞えないふりをしてゐる)
悦子 おらくさんよ。近頃、どうしてますつて訊いてるの。
一寿 (曖昧に)いやあ……あれもねえ……なんちゆうことはないさ。
悦子 あたし、ちつともかまは
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