といふ問題は、単独に政治思想乃至は倫理思想といふものに依つて解決せられるのではなくて、もつと広い立場から、文化といふ問題について、日本の現在及び将来を通じて一つの大きな希望を与へる――新しい豊かな文化をもつて将来の日本が建設される、政治家は既にそれに着手して居る、現にかういふことが行はれてゐる、さういふことを具体的に青年たちの頭にはつきり示すことが非常に大切な点ではないかと思ひます。それがためには政治家とか、或は政府の当局者などの国民に対する声明、宣言、或は訓示といふやうなものゝ中に、それが十分織り込まれて欲しいと思ひます。
 例へば現在、日本の政治をいろいろ批判する、所謂知識層の動向にしても、彼等を通じて常に見られる現象は、政治に文化性がないといふことに対する反撥であります。ところで、政治に於る文化性の欠如とはどういふことかと云ひますと、先づ文化性といふものから定義してかゝらねばなりませんが、私の考へでは、文化性といふものは、第一に日本の伝統に根を下したものでなければならぬことは勿論として、その要素として倫理性、科学性、芸術性、この三つのものが同時に高度の水準を以てすべてのものゝ中にあるといふことだと思ひます。ところがこゝに倫理性といふものだけがあつて、しかも、その倫理性なるものが科学的でない、或は芸術的な表現をもつてゐないといふ場合には、その倫理性といふものは、国民、殊に青年を本当に説得する力をもたない。しかも、現在、日本の政治家や当路者の国民への呼びかけといふやうなものには、この種のものが非常に多いのであります。また芸術性にしても、今日までの芸術を見ますと、芸術性といふものが唯一のものとされてゐる。そのなかにある倫理性といふものが非常に低い、或は閑却されてゐるといふ不健全な状態で、殊に日本の文学といふやうなものは、科学性、倫理性といふ点では、今日まで非常に不健全な病的な状態にあつた。そこで日本の青年学生が自分の身に或る教養をつけようとする場合、日本の文化財からは今云つたやうな非常に不健全なものしか得られない。さういふところに欠陥があるわけでありまして、かく申しますと、文化部担当者として、つまり我田引水と申しますか、なんだか文化だけが大事なんだといふ風な云ひ方に聞えるかも知れませぬが、文化といふものは先程も申しましたやうに、政治にも、経済にも、或はまた外交にも通ずる、その根柢をなす国民の力であるといふ点を、十分お考へを願ひたいのであります。実際に於て、今度の翼賛会に文化部が出来たことに就てはいろいろ意味がありますが、とりわけ今日知識層の一部の中で、比較的今まで拗ねてゐた者、或は懐疑的であつた者が、これに依つて何か非常に新しい希望をもつて、今までの自分の態度を一擲して新しい翼賛運動に参加したい、さういふ熱意を示してゐる者の多くなつたことは事実です。これは愈々日本の政治にも文化といふ部面がはひつて来たといふ、さういふ希望の現れだと思ひます。その態度そのものはまだ余り賞められませぬが、兎に角、さういふ微妙な点もあると思ふのであります。

 元来日本民族は科学性といふ点に於て、弱点があるやうに云はれてをりますが、日本民族そのものは科学性をもたない民族ではないと思ひます。徳川時代の政策は科学圧迫といふ点に非常に力が入れられたものですが、これが明治時代になつて、科学に対する泰然たる欲求となつて現れて、つまり科学といふものを不消化のまゝ呑み込んで行つたわけです。科学がまづさうですが、何事に依らず、日本にはないが外国にはある、かう思はせることがいけない。要するに自信をもたせなければいけないと思ふ。さういふ意味で明治初年の政治家はやはり文化性をもつてをつたやうです。例へば国民に対する告示にしても、文章は立派であるし、またそのなかには確乎たる見識があつた。決して人に書かせたものを読むといふやうなことはしなかつたのぢやないかと思ふ。政治家の情熱が国民に直ぐ伝つて行く。これがつまり芸術性で、さういふ点をよほど考へなければならぬのではないかと思ふのです。それから、例へば音楽と美術に就ては官立の学校がありますけれども、いろいろ民間に起つてをります文化運動に対して、政府はもう少し関心をもたなければならぬのぢやないかと思ひます。勿論その中にはいゝものも悪いものもありますが、いゝものほど苦労してゐる実情ですから、そのいゝものを助成し、これを育てるといふ意図を政府が示して、補助とまでは行かないまでも、さういふものゝ存在を認めて、それに眼をつけてゐるといふことをはつきり感じさせる、かういふ政府の政治的態度が国民に非常な希望を与へることになる。この点に就ては、私は今まで実際にさういふ運動([#ここから割り注]新劇運動を指す[#ここで割り注終わり])に関係してをりましたけれども、実に無関心だつたと思ひます。議会でも、さういふ問題が出たことは絶対にない。偶々議会でさういふ文化とか、文学とか、或は芸術とかいふ問題が出ると、議場に嘲笑が起るといふ現象をたびたび耳にするのですが、つまりさういふことを云ふ議員は非常に野暮な議員だといふ風に考へられる。かういふやうなことが青年の思想には非常に鋭く響くわけです。幸にしてかういふ大政翼賛運動が起る新たな体制になつて、われわれが協力努力すれば、社会といふものはもつと理想に近いものになる途がついた、といふことが云へると思ひます。

 転向者の待遇といふ問題については、当人が既に十分日本人であるといふ自覚をもつてゐるものならば、これは是非とも協力させる場所を与へなければならないし、全国民の力を一つに合せやうといふ、翼賛会の運動の建前から云つても、さういふ人々を積極的に抱擁して行かなければならぬものと私は思つてをります。そして翼賛会自身が大きな自信をもち、国民の具体的な支持の下に軌道に乗つて来れば、勿論さういふ人たちを採用できるのぢやないかと思つてをります。さういふ時期の来るのを待ち、また早く来ることに努力してみたいと思つてをります。

 日本固有の文化と西洋の文化といふ問題ですが、如何なる文化にしろそれが若し不健全なものならば、教養として身につける時には、やはりその教養自体が不健全なものになる。今日本に多いのは文化中毒者だと思ひます。所謂不健全な文化を身につけて、それが文化的教養であると思つてゐる。さういふ教養を文化的だと思つてゐること自体が中毒症状である。かういふのが今の文化人に非常に多いやうに思ひます。西洋のものを身につけるにしても、つける人間に依つては益にもなり、或は害にもなる。西洋かぶれといふ現象はその後者に属します。
 私は翼賛会にはひる前に、文部省に対して長い注文([#ここから割り注]「一国民としての希望」を指す[#ここで割り注終わり])を書いたことがあるのですが、これを極く簡単に申しますと、偶然にも有馬さんの翼賛会実践綱領解説の中に、「教育の功利性を排し」といふ文句がある、恰度それに当るのです。私はかねがね考へてをつたことでありますが、所謂エライ人物と立派な人間といふものゝ区別が非常に曖昧になつてゐる。それで少年たちが中学にはひる頃に、自分は一体エライ人物になるのか、立派な人間になるのかといふことで、一種分つたやうな分らないやうな気持のまゝでずつと教育を受ける。そこで偉い人物といふのは高位高官、金持、或は世間的に有名な人間といふ風に、新聞に書き立てられるやうな一種の名声とか、権力とか富とかいふやうなものと結びついた、要するに有名になるといつた意味で偉い人物といふものが子供の頭の中に印されて行く。一体さういふものが本当に偉い人物であらうか。それとも、仕事は決して派手ではないが、俯仰天地に恥ぢない生活をする、そして国家社会のために真に必要な仕事に没頭する、さういふ人間を立派な人間と云ふのがいゝのか。この点を教育でもつて、迷ひのないやうにしなければならぬと思ふのです。これが今の教育に於て――それを特に先生の責任であるとか、或は文部省の責任であるとかいふわけではなく、要するに社会全体が人間を作つて行くその作り方の上で、非常にこの点が誤つてゐると思ふのであります。(昭和十六年三月)



底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
   1941(昭和16)年12月20日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング