いいえ、違ひます。(さうぢやありません)
いいえ、わたしは知りませんよ。なにかのお間違ひでせう。
いいえ、なかなか、それどころの騒ぎぢやないんです。
いいえ、さうぢやないんですつたら。
いいえ、さうに違ひありません。
いいえ、どう致しまして。さう仰しやられると却つて恐縮です。
いいえ、何んでもないんです。
いいえ、断じてさういふことは出来ません。
[#ここで字下げ終わり]
一寸思ひついただけでもこれだけ。ト書や説明がなくつても、これくらゐの区別はできる。あとへかういふ言葉を附け加へる場合もある。附け加へない方が、簡潔で、暗示的で一層韻律的な効果を副へる場合が多い。戯曲を読む時には、この効果に敏感であることが第一。次に、この効果を次の白に伝へて、次の白を更に効果的にする想像力が必要である。
真の劇作家は、かういふニュアンスから無意識的に微妙な心理的韻律を造り出してゐるのである。似而非劇作家は、これを意識的にやつても、それだけの結果を生み得ない。従つて「死んだ会話」になる。
これは、一篇の戯曲を論じる場合に、甚だ些末な問題として取扱はれるかもしれないが、それは、些未の如くにして実際は、戯曲の戯曲たる「生命」を決定する問題なのである。戯曲を書く以上は、もうこんなことは問題にならない。それはさうあつて欲しい。然し、戯曲が書けるか書けないかの問題なのである。堂々一篇の戯曲と銘打つて公表された作品に対して、この問題に触れた批評をすることは、作家に対して聊か非礼であるとさへ云はなければならない。それだけ、問題にならない問題なのである。つまり、あまり本質的な、根本的な問題なのである。日本現代劇は、悲しいかな、この問題にならない問題、西洋ではもう誰も問題にしない問題を、更めて問題にしなければならない状態なのである。
いろいろやかましい説明をすれば説明できないこともないが、この「演劇の本質」といふ問題は、われわれをどこまでも引張つて行く。度々引合ひに出して恐縮であるが、日本現代劇作家の大部、その中には人生の奥義を究めた思想家もあり、稀代の文学的才能を具へた人もあり、豊富な詩心を恵まれた人もあり、古今東西の学に秀でた識者もあり、革命家的気魄に満ちた志士もありはするが、ただ、それらの人の書く戯曲は、戯曲の本質といふ一点で、ただその一点で、西洋の凡庸な劇作家の作品にさへ及ばないのであ
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