主人が、全集を出すために遺稿はないかといふので、細君はそのガリマアル君と一緒にはじめて夫の書斎のあつちこちをひつくり返してみたのである。
 あつた、あつた。おびたゞしいノートの山である。細君は、それが日記だとわかると、恐らく自分で目を通したくなつたのであらう。
 が、いよいよ、その原稿がガリマアル君の手に渡された時は、全体の分量の三分の一しかなかつた。あとの三分の二は、未亡人が読みながら引き裂いて、紙屑籠のなかへほうり込んでしまつたのである。
 ルナアルは、細君をだましてゐた。巴里へかくし女を(いくたりか)こしらへてゐた。その女の本名までいちいち丁寧に記されてゐる。ランデ・ヴウの模様は大胆に描かれてゐる。その「にんじん」的生涯を通じて、凡そ女性との交渉には縁の薄い筈の彼ルナアルは、彼がその日記の他の部分に於いて、あれほど讃美し、傾倒し、感謝してゐた妻のマリネツトを、無惨にも裏切り、しかも、その証拠を貞淑ならびなき彼女の鼻先へ突きつけたのである。その結果は、想像に難くない。
 去年の秋、ルナアル未亡人が落寞たる孤独の余生を終るまで、この事実は友人の間で伏せられてゐた。
 トリスタン・ベルナアルの一文によつて、遂に「日記の秘密」が暴露されるや、巴里文壇の弥次馬は騒ぎたてた。或るものは、細君の処置を適当と認めた。あるものは、赦すべからざる所業なりと論じた。多くは、ルナアルもルナアルだが、細君も細君だといふ見方に傾いた。たゞ出版屋のガリマアル君が、そつと紙屑籠から拾ひだしたといふ「日記の破片」を、多くのルナアル党は早く増補として世に出せと注文した。
 私は「ルナアル日記」の訳者として、実は細君にお礼を云ひたい。あれがもう三倍もあつたとしたら、途中でくたばつてゐたに違ひないからである。(「文芸」昭和十四年七月)
          *
 私は絵かきの文章に時々感心する。(たまたまある美術雑誌で伊藤廉氏の文章を読んだところである)
 絵かきの文章の面白さは、文学者の文章にはめつたに見られない言葉の独特な駆使にあるのだが、それはたぶん、彼等が、偶然「言葉」といふものをあるがまゝの形で享け容れ、最も自然な機能のなかで捉へてゐるからだと思ふ。
 文学者こそさうでなければならぬと思ふのだけれども、実際は、却つてそれが反対である。日本の今の文学者ぐらゐ「言葉」にこだわり、これを不必要にいぢめつけてゐるものはないと思ふ。なるほど、言葉の秘密といふものについて、誰よりも知り尽してゐる筈である文学者は、また同時に、言葉の反逆を警戒し、その習慣的限界に慊らず、屡々己の欲するイメージをこれに与へようとするのである。
 多くの文学者は書きながら考へる。考へながら書くのでさへもない。つまり、書くことが考へることなのである。それは言葉の機能の半ばを無視することになりがちである。
「話すやうに書く」流儀といふのがなくはない。しかし、日本では少くとも、この流儀は実際にその通り行はれたことはない。だから「話す」ことと「書く」こととの間には常に甚だしい距離が存在するのである。
 絵かきの文章は、この点で非常に違つてゐることを発見する。彼等は、「言葉」と「言葉以前のもの」とを微妙な感覚で結びつけてゐる。われわれは、彼等の文章を読みながら、ぢかに彼等の考へてゐることにぶつかつて行けるやうな気がする。言葉が絵具のやうに使はれてゐるとでも云はうか。
 私の識つてゐる絵かきは、凡そ文学者との話ぐらゐつまらぬものはないと云つた。これは文学の話がつまらぬといふ意味ではもちろんなかつた。文学者の話のしぶりが彼の性に合はぬわけなのである。生憎な次第であるが、私は、これも一見識だと思つた。この絵かきは多分、文学者の「話し方」ばかりについて不満を述べたのではないにきまつてゐるが、私の推量では、やはり、「書くやうなことしか話さぬ」文学者の例の癖に辟易してゐるのであらう。
 それはさうと、日本にも、いろいろな型の文学者がゐる。言葉に対する潔癖と、言葉の健康な使ひ方とを同時にもつてゐる人々を挙げよとあれば、私はたちどころに二人を挙げることができる。志賀直哉、高村光太郎。
 それからもうひとつ、かういふ変つた例がある。「書くやうに話す」といふこと。もちろん、これは、喋ることがそのまま文章みたいだといふことで、これは一つの才能に違ひないけれども、さういふ人の頭の構造を問題とする前に、そこには案外機械的なものが働いてゐると見て差支ない場合がある。一種の言語的関節不随の症状と云へないこともあるまい。
 ともかく、「書く」ことと「話す」こととはまつたく別な作業である。しかし、それは言葉の完全な機能を生かすといふ点で、何れも共通の手段を含んでゐるのであつて、「書かれる」言葉と「話される」言葉とは、それぞれ、言葉
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