段階がどうであらうと、それは、それぞれの専門家の研究に信頼しよう。われわれ日本人が、現在、いかに、精神的に堕落しつつあるか(為政者などの云ふ意味とは、正に裏表の差で)といふことも誰も注意しないとしたら、せめて、文学者の一部が(全部では絶対にいかぬ)それを注意し、民衆の覚醒と為政者の反省を促したら、どんなものであらうと、私はかねがね考へてゐる。
 近頃、強権階級の所謂「国民精神作興」などいふ合言葉の内容はもちろん、皮肉にも、国民精神を不具腐敗に導く危険があり、また同時に、大衆運動の最も根強い力となつてゐる左翼的思想の如きも、一歩を誤まれば、わが国現代文化の水準に於いては、単なる封建的復讐の伝統に結びつく傾向を示してゐる。
 現制度の最も著しき弊害として、私は、官尊民卑の風と、金力万能の思想を指摘したが、前者は官吏が威張つて民衆を軽蔑するといふ意味だけでなく、その反動としてではあるが、民衆が自ら卑下して、官吏を敬遠するといふ意味も含めてゐるのである。その結果民衆の一部は、必要以上に肩を怒らして、官吏何者ぞ、彼等こそ軽蔑すべき人種なりと、町奴的見栄を切る。この現象は、やはり私の云ふ、官尊民卑の弊風に外ならぬので、これは急にどうすることもできぬが、どうかしなければ、日本が困るばかりである。向うが先にやつたからだと云ふかもしれぬが、封建時代、完全な専制時代ならいざ知らず、また、官吏一般はいざ知らず、礼を以て意を通ぜんとするものがあるなら、進んでこれに協力することは恥でもなんでもない。破壊は破壊、建設は建設、修繕も亦、時に必要である! 国民は、うかうかしてゐると、雨漏りのために凍へ死にをしてしまふであらう。
 金力万能も同様、資本家が巨万の財を積み、労働者を搾取することばかりを云ふのではない。もちろん、その結果ではあるが、資本家とその黄金の権力のみを眼の敵にし、民衆の希望を「賃金値上」の一点に注がしめることをも指すのである。
 唯物論的弁証法は、誠に道徳的ではあるが、社会的訓練のない日本の民衆には、やつと個人的利害の問題として理解されるのが関の山である。その上、アメリカニズムの夥しい氾濫が、無産階級の夢をいかに育んでゐるか? 私は、未来何年かの後に、支配者労働階級の怪しげなブルジヨア振りを頭に描いて、ひそかに慄然とするのである。
 が、それにしても、私は、あらゆる高貴にして厳粛な思想を、真に身を以て示す少数の先覚者に敬意を表することを忘れてはゐない。ああ、ただそのひとつひとつに、附和雷同する徒輩の、虎の威を藉る風貌の卑しさよ! これがまた、日本の現在なのである。現代日本人の姿なのである。
 一つの好い思想、好い目論見、好い言葉さへも、それを担ぎ、それに加はり、それを使ふ有象無象のために、折角の魅力が失はれてしまふ例が実に多いのだ。
 趣味といふ点では、世界の何れの国民に比しても負けを取らない筈の日本人が、近々五六十年の間に、最も趣味の劣等な国民に落ちてしまつてゐる。過去の風流は、この形骸を一部に止めてはゐるが、その風流の弄び方が既に、近代的には悪趣味であつて、一向、われわれの生活を高め豊かにする役には立たないのである。
 もちろん、日本の現代生活から、独特の趣味らしきものが生れる気づかひはない。しかし、没趣味は悪趣味に優ること数等である。
 住んでゐる人間が、よくくすぐつたくないと思ふやうな洋風建築、公園の橋の手摺に使つてある「人造栗の樹」材などのことは既に誰でも気がついてゐるであらうが、空恐ろしいのは近頃盛んにできるバアや喫茶店の名前である。かげらうのやうに短命ならいいやうなものの、変に抒情詩調の屋号が大都会の真中にああずらりと並んでゐる光景は、歴史を有つた国とも思へないではないか!
 さうかと思ふと、中野の場末あたりに、「日本屋」といふ看板を出した何かを売る小さな店がある。時節柄、人気を呼ぶつもりだらうが、素朴なるべき民衆の一人をして、臆面もなくかかる看板を出さしめるところに、時代の趣味の頽廃を見るのである。風潮も、ここまで来ると、風潮などとは云つてをられぬ。日本語の読める西洋人が、これらの看板を見て廻つたら、日本人はいよいよ気が狂つたと思ふかもしれぬ。が、そんなことは、どうせ無教育な愚民の仕業であると、われわれは平気な顔をするつもりでゐると大きな間違ひである。若し、われわれのうちの誰かに、知人某が店の屋号を附けてくれと頼んだ場合、なんの気なしに、どんな名前をつけるかしれたものではない。ちよつと洒落れた名だらうなど、鼻をうごめかしたら最期、われわれ自身、とんでもない悪趣味に陥るのが、現代日本の危なさである。
 悪趣味はまた卑俗に通じる。凝りに凝つた悪趣味は、誰憚らずわれわれの周囲を横行してゐるのである。文明批評家も、経済学者も、社会運
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