続言葉言葉言葉(その一)
岸田國士

 私は嘗て、「何かを云ふために戯曲を書くのではない。戯曲を書くために何かしらを云ふのだ」と揚言し、自分の戯曲文学に対する熱情と抱負とを、明かにしたつもりである。
 その態度は最近まで変らずに持ちつづけてゐた。そして、それは、少しも誤つた態度ではないと今でも信じてゐるが、たまたま、近頃になつて「戯曲を書くため」に、なんだか邪魔になつてしかたがない「もやもやした考へ」が、頭のなかに巣喰つてしまつたのを感じ出した。
 この「もやもやした考へ」は、いかに努力をしても追ひ払ふことはできない。固より雑誌の締切に追はれてではあるが、どれ、一つ書き出さうかと机に向ひ、あれこれと主題を択び、人物の風貌を頭に描いてみてゐるうちに、いつの間にかその「もやもやした考へ」が、道具もそろはない舞台の上を占領して、勝手な芝居をしはじめるのである。
 私は、その都度ペンを投げ出して、煙草に火をつける。煙のなかに私の夢は吸ひ込まれて、あとには、しびれたやうな頭と、愚にもつかない胸さわぎが残る。腎臓病のせいか、狂気になる前兆か、それとも所謂詩藻の涸渇か、こいつは、なんにしても面白くない現象だ。
 言を左右に托して、編輯者に勘弁してくれるやうに頼む。いや、勘弁せぬ。どうしても駄目か? どうしても駄目だ。よし、それならといふので、夜を徹して、その「もやもやした考へ」を手あたり次第に書きなぐつてみた。会話といふ形式は、書きなぐりに適したものかどうか、つひ、戯曲をといふ先入感があるので、それに似た形式になつてしまふ。
 私は、苟も文学をやる人間が、そんな出鱈目な仕事をしていいとは思はない。読み返すのも恥かしいやうな文章だ。
 が、それにも拘はらず、初めて「何かを云ふために」書いた、この戯曲ならざる戯曲「風俗時評」は、私の十年に余る文学生活を通じて、未だ嘗て遭遇したことのない反響を呼び得たのである。
 その反響は勿論、特殊なものであつた。平生は二つしか新聞を読まぬ私は、今度に限つて、各新聞の時評を漁り読んだ。何れも好意を以て迎へられてゐた。その好意の最も著しい現はれは、作品の粗雑さを殆ど不問に附し、作者のぶざまな泣き笑ひを、寛大にも、「無理ならず」として強く肩を叩いてくれてゐることだ。
 私は誓つて云ふが、もう二度と、こんな取り乱し方はせぬつもりである。あの作品に若しも時評
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