と断言するのではありません。あれも理想に近いものではあるが、尚一層形の変つた、全く別種の色彩を持つた連載小説が生れる事も希望してゐます。それは例へば今僕の訳しつゝあるジユウル・ルナアルの『にんじん』のやうなものが新聞の連載ものに向かないわけはないと思ふのです。
或は又、夏目漱石の『猫』のやうなものが、もう一度出てもよくはありますまいか。漱石で思ひ出しましたが、漱石の小説は新聞小説としてもなか/\周到な用意を払つてあるやうに思はれますが、あれが所謂大衆とまでは行かないまでも、意外に多くの愛読者を持つてゐたといふ事は、作品の内容が高級であるといふ障碍を乗り越えてその実質的なレベルが、この結果をもたらしたといふ、美事な実例だと思ひます。
尚、新聞小説の反響とか評判とかいふことで気がついてゐるのは、この反響とか評判とかいふものが極めてあてにならないものだといふことです。仮に所謂社内の評判といふものがあります。又友人間の評判といふものがあります。更に又文壇の反響といふものがあります。それからも一つ読者の反響です。作者はこの色々な評判や反響を気にしながら、毎日苦しい仕事をつゞけて行くのですが、果してどの評判に信頼し、どの反響を正しいものとすべきでせうか。或場合には全く正反対のこともあります。殊に甚だしいのは、いゝとか悪いとかいふ批評が作品のほんの一部分、ほんの一面に向けられた言葉に過ぎず、それが無責任に次から次へと伝はつて行くことです。聞く処によると、読者の声を代表するかの如き新聞社への日々の投書は、決して読者の声を代表するものではなくて、その中の極く偏した一部、極端に言へば物好きな弥次馬の声なんださうです。さういふ事を一々気にしてゐる作者もありますまいが、万一さういふ片々たる投書批評を標準にして新聞小説の傾向なり調子なりが決定されて行くとしたら、非常に嘆かはしい事です。
僕は新聞の小説を引き受ける場合、一番気になるのは新聞社の方で初めから新聞小説の一つの型をきめてきてはゐないかといふことです。僕にはまだ自分の力でその型を破りながらしかも大多数の読者に満足を与へるやうな作品の見当がついてゐません。
底本:「岸田國士全集21」岩波書店
1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「文学時代 第三巻第十号」
1931(昭和6)年10月1日発行
初出:「文学
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