もあると思ふのであるが、日本ではさういふことを繰り返す前に、最初の有力な「新劇運動」が、もう既にある一つの地盤を固めて、わが既成劇壇の一角を占めてゐなくてはならぬと思ふのである。そして、これは、歌舞伎と新派、並びにその系統に属する職業劇団と対立して、飽くまで「現代的な」存在を示し、少くとも、一般知識階級の観劇慾を満す方針の下にその組織と興行法を確立してゐなければならぬ。そこでは、恐らく、創作劇としては山本有三、菊池寛以後の現代劇、たまには、外国劇の十分日本化された翻案(新派劇化されたものに非ず)、古典劇の新演出等が、続々上演目録中に加へられてゐるであらうし、実際、今日生れてゐない新作家が、既に幾人か紹介されてゐるであらう。更に重要なことは、さういふ劇場があつてこそ、今日の劇作家は、彼等が書き得なかつたものも書いてゐやうし、また、それがために、上演目録は、現在以上豊富なものになつてゐやう。無論、それら劇作家のあるものは、純然たる職業作家になつてゐて差支ないのである。この劇団は、つまり、現代人の要求する「通俗劇」を供給するのであるから、高踏的なものは、自然脚光を浴びる機会がなく、それは西洋
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング