す」、それぞれ文学として、又は戯曲に盛り得る最高のリリシズムとして、当時私は推賞を惜まなかつたものであるが、戯曲の常道を行く技巧と形式の上からは、完成の域に近い意味で、やはり、この「二十六番館」を挙げるべきであらう。これは、先づ文学的であるよりも舞台的である。文学的には感覚の鋭さを見ることはできないが、舞台的には、心憎いスマアトさを示し、実際、日本の俳優では、その効果を生かすことが困難だと思はれる個所が到るところにある。ただ、しかし、前に述べた明瞭な欠点と、作者の「新帰朝者」らしい老婆心が、この作品を幾分、取りつきにくいものにさせてゐる。私が、老婆心といふのは、人物のあるものを、強ひて解りよく書かうとしてゐるところ、例へば、人物の性格とミリュウの関係を故ら結びつけようとしてゐることなどである。これは、老婆心でなくつてなんであらう。但し、この老婆心は、一面、この種の作品を、「気ざさ」から救ふことにもなるのであるが、川口君に、断じてその心配は無用である。
私が特に、阪中、川口両君の名前を挙げたのは、必ずしも二人を比較する意味はないのだが、今将に興らんとしつつある新劇時代が何等かの意味で、
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