応消えてなくなつても惜しくないものである。ただそれが気息奄々として今日なほ演劇界の表面に浮動してゐるのは、ただ単に若干の熱心な、或は他にする仕事のない俳優が、新劇俳優としての夢を持ちつづけ、どうにもならない運命がいつか開けるであらうといふ期待を、ささやかな舞台の上で抱いてゐることなのである。
 文学としての戯曲は、いつの間にかこれらの舞台からさへも絶縁して進むべき方向に進んで来た。勿論優れた演劇のない国に優れた戯曲が生れる筈がないのだから、いはゆる創作戯曲の数も極めて微々たるものではあるが、しかし、十年前にくらべるとそれ等の創作戯曲は、いよいよ本物といふ感じがし出した。それは必ずしも内容的に優れたものとはいへないかもしれないが、戯曲の本質といふ点で、いままでの戯曲には見られない新鮮さがあり、従つて既成の俳優にはその演技術を変へない以上、舞台でこれを演じ活かすことができないやうな要素を多分にもつて来た。
 今日の新劇を、本当に新劇として育てあげるためには、まづさういふ創作戯曲の完全な演出をはかつて、一般見物に新しい演劇の魅力を示すことであつて、そのためには新しい俳優の演技上の訓練が第一の急務で、更に新しい俳優の出現によつて、まづ新しい作家が現はれて来るといふやうにならなければならない。
 従つて、この意味での本当の新劇が生れるためには、まだまだ一朝一夕の努力では駄目だといふことである。

       三

 新劇といつても、そのなかにはいろいろな傾向、ジャンルが含まれてゐるから、それぞれの傾向、ジャンルを掲げていろとりどりの舞台が表はれることはむしろ望ましいことであるが、如何なる傾向いかなるジャンルを問はず、それが単なる娯楽的興行である場合は別として、少くとも芸術行動と名づけられる限り、演劇としての本質を高く掲げて進まなければならないのである。さういふ意味からいへば、永い歴史がこれを示してゐるやうに、如何なる演劇といへども文学に背中を向けることは出来ない。のみならず、文学の中から特に劇文学といふ独特な分野をまつしぐらに開拓して行くものが、いつの時代に於いても演劇のリイダアとなり得るものであると信じる。それ故、今日の演劇の指導精神なるものも結局は今日のもつとも真面目な劇文学者、才能ある劇作家によつて、唱道されなければならない。僕は若いジェネレエションの間から絶えずさういふ人々の出現を期待してゐるのであるが、多くの演劇雑誌を見渡してみて、時代を導くに足るやうな才能は容易に発見できない。
 が、少くとも僕の知つてゐる範囲内では、「劇作」の連中、川口一郎、阪中正夫、小山祐士、田中千禾夫、伊賀山精三等の諸君の将来に嘱望し、評論家としては辻久一、菅原卓等の諸君に期待をかけてゐる。
 これらの諸君は幸ひ一団となつて、新しい演劇の指導原理の発見に努力し、その実践に汲々としてゐるから、その結果がやがて大きな実を結んでくれることを祈つてゐる。(談)(一九三四・一)



底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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