い使命目標であるかといふと、すでに今日一部の若いジェネレエションの間で考へられてゐるやうに、演劇の本質研究といふことだと思ふ。このことは非常に面倒な説明をしなければならないが、一口にいへば、日本の演劇には日本の演劇の伝統があり、西洋の演劇には又その伝統があつて、その二つの伝統が、いはゆる日本の新しい演劇の上で、如何に取扱はれなければならぬかといふことを的確に研究し、その結果を舞台の上でも戯曲創作の上でも実践するといふことにまで進まなければならない。
 事実、日本の新劇は日本の演劇の伝統を棄てて、西洋演劇の伝統に就いたやうに今まで思つてゐる人もあつたやうだが、僕のみるところでは必ずしもさうとばかりは云へない。例へば、十年前までに発表された新劇の戯曲といふものを舞台にかける際、俳優たちは果して新しい演技といふものに基いて、その戯曲を舞台化してゐたかどうか。当時の俳優は如何にして古い日本的演技と絶縁して、新らしい西洋的演技を修得したか。かう考へてみると、表面的にはどうかかうか胡麻化してゐたにもせよ、本質的に日本の古い演劇の伝統から脱してゐない俳優の手で、公然と新劇なる舞台が造られてゐたのである。
 従つて作家の方でも、一方で西洋の戯曲からいろいろのことを学びながら、それが舞台のイメエジとなる場合には、いきほひさういふ俳優たちの演技に結びつく結果、書かれた作品そのものは飽迄も日本演劇の伝統に根ざす、舞台的効果を重要な要素とするやうになる。この状態が十年後の今日は歴然と表面に現はれて来た。即ち、今日の最も純粋な立場による若い劇作家たちは、譬へその作品がもつとも舞台的であることを望むものでさへ、決して在来の俳優の演技といふものに信頼してゐない。そこに何かしら日本演劇の伝統のなかには見出せない新しい、言ひ換へればより西洋的な演技の本質を求めてゐる。
 今日一般には新劇俳優の芸の未熟が云々されてゐるけれども、それは前にも述べたやうにこれまでの新劇が俳優の演技に対して、もつと根本的な注意を払はず、つまり演劇の本質について、極めてその場限りの解釈しか下してゐなかつたために、かういふ結果を生じることは既に十年前に僕などが予言したくらゐであつた。

       二

 今日の新劇は決して不当な扱ひを受けてゐるとは思はない。役割を果した人間は隠退すればよろしいのであつて、今日までの新劇は一
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