を満足させなければならない。
 そこで、第一の問題は翻訳である。原語のまま上演することができれば一番よいのであるが、色々の事情でそれが許されないから翻訳をするのである。してみれば、翻訳の理想は云ふまでもなく、原語の解らない人にでも、その翻訳を通して、原語の解る人が原語を通して味ひ得るやうな味を伝へることである。勿論理想に於てである。記号としての言葉は、まあある程度までそれができるとしても、いよいよ演出するといふ段になると、先づ俳優の扮装である。日本人がどう化けても西洋人には見えない。次に、動作と表情である。それこそ西洋人の真似はできるかもしれないが、すつかり西洋人らしくなり切ることは、特別の人間でない限り不可能である。そこで、扮装も動作も表情も、ある程度まで「翻訳」する必要が生じて来る。言葉の方は適当な訳語が見つからなければなんとか説明で誤魔化しもつくが、扮装、殊に動作や表情になると、さうは行かない。言葉の翻訳には幸ひ翻案と区別される一線を設け得るが、動作や表情の翻訳は、多くの場合翻案になつてしまふ。その代り、動作や表情は、翻訳をしなくても「原語」のまま通用する場合が可なり多い。だんだん多くなりつつある。
 ある女が自分の不幸な身の上を物語るとする。西洋の女はこの場合、決して笑顔を作らない。日本の女は、大抵笑顔を作る。これが翻訳劇の場合だとどうなるか。笑顔を作れば、それは翻訳ではなくて翻案になるのである。詮じつめれば外国劇をかういふ風に演出することが、果して適当であるかどうかといふことになる。少くとも、かういふ点まで考慮に加ふべきではないか。
 前に述べた外国劇としての興味は、多少でも殺がれることになる。それはまあよいとしても、その女の性格や心理に大きな隔りが生じる。それが作品全体に好ましい結果を齎らさないことは明かである。それが若し、全体がこの流儀に統一され調和されてゐるならまだよいが、さうすると今度は、原作の「味」が出ないにきまつてゐる。つまり「別物」になる。それでもいいと主張するものがあれば、僕は云ふであらう。「別物」にした上で猶且つ、原作に匹敵する芸術的効果を挙げるためには、必ず「原作の味」を誤りなく味ひ尽した上でなければならない。「わからないから、かうして置け」――そして、それが「原作」を傷けるものであつた場合、そのものの罪は正に死に当るであらう。
 くどいやうであるが、「日本人には解らない」と思ひ、「解らうとしない」点に、まだまだ外国劇の妙味が潜んでゐるやうに思はれる。これは外国劇の妙味といふばかりでなく、これからの新しい日本劇が、多く学ぶべき本質的魅力が潜んでゐるやうに思はれる。
 外国の戯曲を日本人流に解釈し、日本人式に感覚し、日本人風に演出することは、まだ早い。そんなことを今のうちからしてゐると、結局、外国の戯曲から「われわれに欠けてゐるもの」を見出し得ずにしまふだらう。(一九二五・一)



底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「新小説 第三十年第七号」
   1925(大正14)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
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