新派の俳優が、現代の軍人に扮してゐる写真を見た私は、苦笑を禁じ得なかつたが、新劇の俳優は、ただ、そんな滑稽なことをしないだけが取柄である。
「それらしい人物」に扮し、その人らしく語り動くことのできる資格が、人物の範囲を拡げれば拡げるほど、現在の俳優中には求め難いとしたら、いつたい、どうしたらいいか? 戯曲家は、自分の創作に於て、人物の範囲を限るより外、「現在に於て」上演の成績を高める方法はないことになる。どういふ風に限るか? 劇団に関係ある作者は、このことを十分考慮に入れることが得策である。われわれの求める「現代劇」は、しかし、かかる制限の中から易々と生れるであらうか?
作家と俳優とを、ここで区別する必要はなくなる。何れも「自分」だけしか現はし得ず、しかも、その一人が、どんな人物でも引受けなければならないといふことは、職業として通用するかどうか? 舞台が単調で、ぎごちなく、人物の一人一人が魅力をもつて生きて来ぬといふことは、その意図の如何に拘らず、金を取つて見せる芝居ではないのである。取れたら取れたで誠に結構であるが、それは僥倖と考へねばなるまい。例の左翼劇華やかな時代のことを云ふものもあるが、大衆の附和雷同性を利用するならどんなことでもできる。そして、それが続く間、「芸術」は伸びないといふ証明もできるのである。
以上のことは、別に誰に答へるといふ目的ではないが、先日朝日新聞で村山知義君が、新劇職業化の問題を論じ、「現代劇」への方向は、「新劇」を堕落せしめるものだといふやうな意見を述べてをられたから、さういふ考へ違ひをする人がゐると困ると思ひ、ここで、一般の誤解を解いておくのである。
勿論、再三云ふ如く、若い人々が、たとへ将来演劇を職業とする目的を抱いてゐるにせよ、いきなり、今日の商業劇場に迎へられるやうな卑俗劇を志すことは悲しむべきことである。しかし、私の云ふ現代劇は、今日、「新劇的気魄」を以て進むべき道の延長にすぎないのであつて、徒らに、見物に媚びよとは断じて申さぬ。新精神、新傾向大に可なり。ただ、少数の「新劇マニア」、ある種の新劇批評家の好みに投じ、乃至は今日までの「雑誌戯曲」を標準として、白と白との間に黴が生えるやうな芝居をやつてゐては、「新劇」としても通るのが間違ひだし、将来それが成長しても、優れた「現代劇」にはならぬのである――といふことをお互に銘記したいと思ふ。要するに、ほんたうの「新劇」をパスした免状所有者のみが、将来、「現代劇」の信用ある生産者となり得るのだと云つておかう。(一九三五・四)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「劇作 第四巻第四号」
1935(昭和10)年4月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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