新劇の行くべき途
岸田國士
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)思想《イデオロギー》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)少しでもわれ/\の眼に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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事変下の所謂「思想統制」が演劇興行の上にまで及んで来たことは、これは止むを得ないものとして、われわれは寧ろ積極的に、その結果を本来の目的に副はしめるやう努力しなければならぬと思ふ。
営利本位の劇場が、それぞれ上演目録の一部を「時局向き」に着色しはじめたことについては、今私は何も云ふことはない。つまり「思想」のないところに統制もなく、従つて思想的な影響力等といふものは考へられないから、別に今更問題にしなくてもいゝのである。
しかし、新劇の領域では、少くとも、作家並に劇団は、真剣に、それぞれの立場に於て自分の仕事の可能性といふことを考へ、或は転向を覚悟し、或は自粛自戒を心掛け、更にこの機会に、希望をもつて新しい道を拓いて行かうとするなど、こゝのところ、少しばかり色めき立つてゐることは事実である。
ところが、私の考へでは、今日までの新劇の歩みをふり返つてみて、新劇自身のために、この波紋は、必ずしも憂ふべき現象ではないといふ見透しのもとに、寧ろ、新劇当事者は勇気を奮ひ起すべき時期だと信じるのである。
なぜなら、芸術こそは、現実の制約によつて常に新生命を与へられるといふことも忘れてはならぬことだし、日本国民たる自覚は、当局の配慮を俟つまでもなく、今日、常識ある人間の行動を支配することは理の当然だからである。
但し「国家的見地」よりする言論の統制が演劇を通じて、如何なる程度に行はれるかといふことが、万一、国民の常識で測り得ないものだとしたら、これは由々しいことである。文学芸術の如き、云はゞ、「民衆自身」の、しかも、「民衆同士」の、裃を脱いだ感情表現のなかに、公式的の、上申書風の体裁を求めて、うつかり戯談も云へぬといふやうな固苦しさが必要だとされたら、国民は、立ちどころに呼吸をつまらせてしまふだらう。そんな筈はないとは思ふが、例へば、自由主義的な物の考へ方はいかぬといふやうな布令だしの如きは、故ら正当なるべき政治的意味を誤解させ、現代知識人の教養を真つ向から否定して、その思想生活の根を完全に止めてしまふやうに予想さ
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