待つて、感興相応の意志表示をして下さい。
面白くても面白くなくても、黙つて眉に皺を寄せて、腕を組むか両手をポケットに突込み、断じて拍手もせず、断じて拳固も振はない覚悟でゐる必要はありません。芸術たるものは、さういふ義務を諸君に強要はしないのです。
わが新劇創生時代に、当事者は観客に向つて、一切拍手を禁じたといふ風説を耳にしました。多分、モスコオ芸術座の攣《ひそみ》に倣つたのでせうが、これは甚だ考ふべきことで、御承知の通り、欧羅巴と日本とは国情も違ひ、欧羅巴では、見物は、劇場へ半分手をたたきに行くのです。最も甚しいのは伊太利で、普通芝居が済むと、五六度幕を上げたり下げたりする。拍手の起る度毎にです。いや、寧ろ、幕の上る度毎に拍手が起るのです。拍手は、幕を上げて俳優に挨拶をさせろといふ意味、幕を上げるのは、見物に、拍手をして、俳優いや、世間にこの芝居の成功を告げ知らせよといふ意味なんでせう。滑稽なのは幕が下りても、俳優は裏へ引つ込まない。舞台へ整列して、幕の上るのを待つてゐる。拍手をしないでゐられますか。私は、伊太利で十一度、仏蘭西で六度、独逸で四度、幕の上り下りした実例を知つてゐます。新聞の劇評は、その度数を書き上げて成功の程度を報じるといふ次第です。劇場から社交的空気を一掃することが、演劇の純化に役立つと考へるものがあつたのも、不思議ではありますまい。
露西亜でも、これに似た傾向は無論あるに違ひない。君子スタニスラフスキイは、この煩雑な儀式! を撤廃して、一方観客のお世辞を封じ、一方俳優の自己陶酔を戒めたのです。
日本の劇場、殊に新劇に於ては、余程事情が違ふといふのはここです。まして、わが国伝来の風習から云へば、「俳優は見物を面白がらせるのが商売で、当り前のことをするのにこつちが手なんぞたたいてやる必要はない」といふ観客心理であります。さういふ封建的、事大的、階級的心理を打破し、新時代の芸術家を、才能相当に待遇する風習は、音楽の演奏に於て既にその精神が取り入れられてゐるにも拘はらず、新劇は、その苛酷なる文学趣味によつて、「瞬間芸術」の鑑賞及び発達に、知らず識らず官僚的障碍を築いてしまひました。
それなら西洋では、どんなに退屈な場合でも、俳優に向つてお世辞的拍手を送るかといへば、決してさうではない。前に述べた「足踏み」はもとより、「口笛」、「声入り欠呻」、「中途退場」その他、「大根引込め」式半畳はまだ生優しい方で、少し前までは、「焼き林檎」をぶつけるといふ念入りの不満表示法が行はれました。かういふ油断のならぬ、同時に、頼もしい見物を前において、西洋の俳優は、長年、正道的演技――つまり、現代の演劇を生んだ伝統――の鍛錬を経て来てゐるのです。
俳優をして、自分の本質的価値を知らしめるのは、演出者でも劇評家でも興行者でもありません。真に演劇を解する見物の、忌憚なく、同時に、成心なき舞台への呼応であります。
やうやく「本道」に一歩を踏み入れようとするわが新劇のために、否、わが新劇俳優のために、よき声援を与へられる意味に於て、先づ、及第点以上のものに対しては、多少「お世辞」でも、真の拍手を送つて、酬いらるること少き彼等をして、俳優たるの幸福を満喫させていただきたい。と同時に、落第点以下のものには、気の毒でも「焼き林檎」をぶつけ、再びそのままで舞台に現はれる無恥と大胆を繰り返させず、俳優たるの難きを肝に銘じさせていただきたい。これは、これからの新劇のために、諸君が与へ得る唯一無上の協力であります。(一九三三・二)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「築地座 第十一号(一周年記念号)」
1933(昭和8)年2月25日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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