さて、「青年の嗜み」として、特に青年のみに必要なことがらはなんであるかといふと、それはもう、今迄の話でもわかるとほり、別に取り立てゝこれと云はなくても、日本人としての「嗜み」のすべては、青年としても既にこれを身につける準備をはじめてゐなければならぬ、といふことです。
 しかし、それにしても、「青年の矜り」なるものが「青年の嗜み」の基礎となる以上、そこにはおのづから、「青年らしい」独自の表現が生れる筈です。
 それについて、重要と思はれることを、二三例をあげておきませう。

 先づ第一に、家族の一員として、青年男女の占める地位を考へてみませう。多くはまだ両親の膝下にある時代です。なかには父母のいづれかを喪つたものもありませう。しかし、何れにしても、家長またはそれに準ずる親権者の庇護と支配とを受けつゝ或は学業にいそしみ、或は家業を助け、または他の職場に通つてゐるのです。
 従つて、これら青年男女の「嗜み」として最も肝要なことは、家族の年長者に対する心遣ひであります。
 青年は、「家」の希望であり、光明であり、男子ならば将来を支へる力、女子ならば外に開く花であります。かゝる一家の期待に応へる覚悟と日常の行動は、青年をして、「よき息子、よき娘」たらしめるものでありますが、常に溌剌として意気昂れる風貌挙止は、最も両親を安堵せしめることを忘れてはなりません。それと同時に、謙抑己を持して、苟くも抗弁に類する言辞を弄しないといふことが、青年のいやが上にも頼もしい態度であります。
 時には年長者の無理解といふこともありませう。これを正しい理解に導く手段は、決して抗争ではなくして、むしろ、沈黙の従順、然らずんば、好機を待つといふことであります。両親の譲歩は常に信用の程度に比例するものだからです。
 両親に対する青年の絶対な聴従といふものは、そこに卑屈な陰翳を伴ひさへしなければ、まことに青年自身の品格を高め、一家の貫禄を重からしめるものであります。

 次に、「青年の嗜み」として挙げたいのは、徒らに苦痛を訴へないこと、安逸を希はないことであります。暑い寒いの挨拶も、青年には似合はしくありません。烈風に面《おもて》を曝《さら》して快とするやうなところが多分にあつてほしいのであります。青年は如何に瘠我慢を張つても「痛い」などといふ言葉を口にしないところに、少しも不自然でない、青年らしさがあります。
 疲れても疲れをみせず、腰をおろしたくても起つたまゝでゐるといふ風なことは、それが仮りに「気取り」であつても、さういふ「気取り」ならば青年にはゆるされます。
 ましてこの種の「我慢」は青年の自己訓練として当然必要でもあり、また、その「我慢」そのものが、ゆかしくも凜々しくもみえるのです。

 青年男子は、何をおいても「男らしさ」の修業を心掛けねばなりません。「男になる」とか、「男を磨く」とかいふ言葉は、主として徳川時代にある特定の階級で用ひられたために、一種の臭味を生じてゐますが、これは決して侠客の専用に委すべき言葉ではないと思ひます。「任侠」の倫理は如何に男性的でも、「やくざ」と自称する理想の低さによつて、たゞそれだけで一般の倫理とはなり得ないだけです。
 女子青年が「女らしさ」の完成を目指すべきことも亦これと同様でありますが、「女らしさ」といふことが、とかく誤られがちで、新時代の女性の理想は、たゞ単に「男性のために」といふ従属的な関係のみを基本として打ち樹てらるべきではありません。女は、女としての自らの矜りのために「女らしく」あるべきであります。
 男女の特質の詳細な比較は、こゝでは必ずしも必要ではありますまい。たゞ、男の「男らしさ」は女を「女らしく」し、女の「女らしさ」は男を「男らしく」させる根本の条件だといふことを、こゝでははつきり云つておくにとゞめます。

[#7字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 そこで、男女青年、特に男子青年に「嗜み」として希望したいことは、前章「文化とは」の項に掲げた、「卑俗さ」をはじめとして、苟くも、「卑しい」と名のつく一切の言動に対して、常に敢然と戦ひを挑むことであります。これは他に向つて敵を求める前に、先づ自分のうちに厳重な掟を作らなければなりません。
「卑しい」と名のつくものに、その他、「卑怯」あり、「卑劣」あり、「卑屈」あり、「卑猥」あり、です。そのうちの幾分かについては前条でも触れたと思ひますが、更にこゝで繰り返しておきたいわけは、青年の高邁なすがたを、次代の国民として頭に浮べるだけで、私は胸がいつぱいになるほどうれしいのです。
 そして、かゝるすがたは、「卑しきもの」すべてを払拭することによつて、鮮やかに描き出されるからであります。
「卑怯」、「卑劣」、「卑屈」は、いづれも、わかり易い道徳の範囲で、自他ともに、どういふ場合でも、すぐ「卑しい」といふことが判断されるのですが、「卑俗」と「卑猥」とは、しばしば、環境の作り出す雰囲気といふやうなものになつて、そのなかにゐると、ちよつと気がつかぬことさへあります。
 殊に「卑俗さ」に至つては、前章で述べたとほり、世間一般に通用してゐる事柄のなかに、現在どうにもならぬほど充満してゐる風潮でありますから、よほどの見識と「志」とをもつてこれに対抗しなければ、遂にそれらの敵の虜となる懼れがあります。
 もともと、この「卑俗さ」は、多くの場合、道徳的にみては、一見なんら非難すべき節がないやうな装ひをしてゐます。のみならず、どうかすると、甚だ「道徳的」に防備され、いはゆる「健全な思想」によつて骨組だけは整へられてゐるのですから、青年に対しては、公然、ある種の力をもつてのしかゝつて来ることもあるでせう。
 こゝが「嗜み」として、青年の青年らしい用意を必要とするところです。
 例へば、街を歩いてゐると、「花より団子、菓子より貯金」といふ標語が麗々しくポスターとして掲げられてゐる。
「なるほど」と、一応は心をとめて、この調子のいゝ対句を読み返してみるでせう。「さうさう、貯金をしなければならん、無駄使ひはしないやうにしよう」と、神妙に自分に云ひ聴かせながら立ち去る一人の青年を想像してみます。このポスターの効果は満点に違ひありません。
 ところが、このポスターの標語に、ふと、なにか「味気ない」ものを感じ、「貯金はたしかに必要だが、かういふ奨め方をされては、どうも……」と、一瞬、顔を曇らして歩き出す青年の姿が、なんとしても私の眼の前にちらつくのは、いつたいなぜでせう。
 この標語の「効果」については、私は強ひて問題にしません。たゞ、この標語から受ける国民の、殊に青年の印象を、「日本の文化」といふ立場から考へてみますと、これは決して、日本の気高いすがたを映したものとは云へないのみならず、逆に、甚だ日本的ならざる、露骨な実利主義の、それも、国語の滋味ある語感と、伝統的な美しい生活感情とを無慙に傷つけて恥ぢない、一種の冒涜が得意げに行はれてゐるからであります。
 なぜなら、ほとんど誰でもが云はれてみれば気がつくやうに、「花より団子」とは、一種の自嘲的諷刺であり、少くとも、花見といふのに、花はそつちのけで、食ひ意地ばかり張つてゐる人間を軽く嗤つた、庶民の気取らない自己批判であります。
 従つて、「貯金」といふ、戦時下に於ける当然の国民的責務を連想させるためには、頗る厳粛を欠いた、低い調子のものとなるばかりでなく、文章の勢ひといふものは微妙なもので、この標語をうつかり読むと、「花より団子」の意味が全く本来の面目を失つて、却つて逆な印象を与へ、花など愛でるのは迂闊者で、団子の一串さへあれば、そんな花などはどうでもよい、といふ風な口調に響いて来るのです。これまた、たとへ「菓子より貯金」といふ思ひつきが多少可憐であるにもせよ、全体の効果の上から、戦争遂行のために絶対必要な「貯金」の奨励としては、どうもがさつで、「美しい夢」がなさすぎ、たゞ、当り前に、「なるべく多く貯金を」と呼びかけられた方が、ずつとすつきり胸に来るのであります。つまり、多くの宣伝標語に見られるこの種の「いゝ気になつた」言葉の遊びは、おしなべて、語呂が月並で、着想が低く、はしたないまでに露骨で、押しつけがましいところがあります。穿つて云へば、賞金目当ての苦心がありありと文字の間に滲み出てゐます。事柄が事柄だけに、国家の財政を憂ふる気持など毛頭感じられないところに、もともと救ふべからざる表現の空虚があつて、それが根本で、全体から云ふに云はれぬ「卑俗さ」を匂はせるのであります。
 こゝにどうして、責任者は気がつかないのかと、私は宣伝標語を見るたびに思ふのですが、恐らく、青年諸君の多くは、さういふ標語の募集に応じて当選したものを除いては、私と同感であらうと信じます。
 さて、それなら、かういふ事実に対して、青年はどうすればいゝか?
 くれぐれも断つておきますが、私は、今、青年の「嗜み」について語つてゐるのです。
 最も「嗜み」のない一例は、かういふ標語をみて、反感を抑へきれず、「貯金などするものか」と、一瞬でも心の中で叫ぶ、その本末を弁へぬ態度であります。
「貯金」は国家のためにするのであつて、標語を作つたり、選んだりした人間のためにするのではありません。
 それなら、そのポスターを引き裂いてしまふかといふと、これまた穏かでありません。今のところ、このポスターのために、一人でも二人でも、実際、貯金をするものがあつたら、もつけの幸ひだからです。
 青年は、第一に、この種の標語から、「卑俗な」臭ひを嗅ぎつけて、困つたものだと思ふだけで、既に、「嗜み」をいくぶん身につけてゐると自ら信じてよろしい。さういふ「感覚」を備へてゐて、しかも、今時、いちいち、そんなことにばかり神経を使はず、自分たちの時代になつたらと、やがて来る光栄の日を待ちながら、その「感覚」を益々研ぎ澄ましておいてほしいものです。
 青年の力が当然ものを言ひ、自分の意志で物事が処理できる場面で、この「卑俗さ」が忍び込むのを警戒し、阻止しなければならぬ機会は、ほかにいくらでもあります。但し、それは、周囲に気を配ることではない。自分自身の皮膚が犯されるか、犯されないかの問題です。「卑俗さ」は怖れるには当らぬもの、たゞ、何処にあるかがわかつてゐればいゝものです。それはちやうど黴菌のやうなものです。これに対しては、過度の潔癖は禁物で、精神の健康が何よりの抵抗力であります。
「滔々と」といふ形容が実によく当てはまる現代の世相の「卑俗さ」は、是非とも、この戦争の遂行中に、国民の自覚と努力によつて一掃しなければならぬものですが、実を云へば、これはもう、心構へや工夫の問題ではないのです。いはば時代を覆ふ不治の病ひのやうなもので、恐らく、成育期を異にする新しい世代の登場を俟つて、はじめて面目を改め得るていのものであります。青年は、しかし、青年としての矜りと嗜みとをもつて、この内外多難の時代を継ぐに当り、単なる風習の上に如何なる「卑俗さ」が尾を引いてゐたにしても、決して、前世代の善意と苦闘とを疑つてはなりませぬ。まして、諸君に対する熱烈な期待は、表面はどうあらうと、心中、祈りに似たものとなつて燃えてゐます。
 先輩、長上、指導者の言動を、個々に批判するの愚を敢て犯さず、その言はんとするところ、その示さんとするところを、率直に受け容れ、その言ひ方、示し方の「心に満たぬ」ものは、自らこれを補つて、十分に力あるものとすべきです。
 時代はまさにさういふ時代だといふことを、こゝで特に、私は、多感な青年諸君に愬へるものです。

[#7字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 最後に女子青年のために、「女の嗜み」について、もう少し補足しておきたいと思ひます。
「女の嗜み」のうち、最も卑近なものは、身だしなみでせうけれども、これは前にも云つたとほり、単に「化粧」や「服飾」によつて、「美しくみせる」といふことを問題にしてゐるのではなく、むしろ、女の「女らしい」慎みと用意とを正しい「身づくろひ」によつて示す
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