で現されるか。矜りが矜りとして青年一人一人の身につき、それが、立派に日本青年のすがたとなるためには、どういふ風にすればいいか。それがこれからの問題です。

[#7字下げ]四[#「四」は中見出し]

 この問題の答へは、私の考へでは、至極簡単であります。
 曰く、日本の青年としての「嗜《たしな》み」を完全に、どこまでも、自分のものとする、これだけであります。
 それは、言ひ換へれば、日本人としての「嗜み」を、青年時代から、それぞれの立場でしつかり身につけるやうに修業するといふことに外ならぬのです。

[#7字下げ]五[#「五」は中見出し]

「たしなみ」といふ言葉は、日本語として非常にいゝ言葉であります。最も日本語らしい日本語、落ちついて、含みがあつて、音も美しく、直観の鋭さにみちてゐます。
「たしなむ」といふ動詞から来たものに違ひありませんが、「たしなむ」といふ言葉の意味は、元来「好く」「好む」といふ意味のほかに、「苦しむ、なやむ」といふ意味があり、それが重つて、「修業する」「わざを学ぶ」「道にいそしむ」「磨き飾る」といふやうな意味に用ひられて来てゐます。
 従つて、「たしなみ」といふ名詞になると、「趣味好尚」といふ意味から、「心がけ」「用意」「覚悟」の意味ともなり、「慎み」といふ意味にもとれ、「身だしなみ」と云へば身なりを整へることでありますが、「たしなみがある」といふことは今の言葉で云へば、「教養がある」といふ意味にまづなるのであります。
 この言葉は、どちらかと云へば、久しく、忘れられてゐた言葉で、相当年配の人の間でしか普段は使はれてゐなかつたやうに思ひます。
 私は是非とも、この言葉に今日の新しい生命を与へ、国民錬成の正しい拠りどころとしたいのであります。
 私は今、参考のために大日本国語辞典を引いてみてゐます。「嗜み」の項に、太平記からの引用があります。「朝暮《あけくれ》只武勇の御嗜みの外は他事なし」。それから、狂言の連歌毘沙門から「小刀は持ちませぬ。たしなみの悪い者共ぢやな」といふ句が引いてある。「武勇の嗜み」とは武芸の修業でありませう。刀を持たぬので「たしなみがわるい」とは、心掛けがわるいといふ意味です。が、こゝではそれがもつと強い意味、即ち、面目にさへかゝはる失態だぞと「たしなめる」意味が籠つてゐます。「嗜む」の項には、今鏡の「さやうに道をたしなみて、やんごとなくなんおはしける」がのつてゐます。道をたしなまれた結果、いとも気高くなられたといふことで、これは明らかに、深い教養が、品位を高めたといふ解釈であります。また、今物語から、「和歌の道をたしなみて、その名聞こゆる人なり」が出てゐます。これは云ふまでもなく、和歌の研究を積んでといふことです。最後に、謡曲から、「露の命を惜しまずして、最期を清くたしなみ給へ」といふ文句が引いてあります。この使ひ方は面白いと思ひます。「最期を清くたしなむ」とは、最期を立派に飾るといふことでせうが、それが平生の心構へにある、覚悟にあることを含めた言葉として理解しなければなりますまい。

[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]

 言葉そのものの解釈はこれくらゐにしておきますが、もう少し、「嗜み」といふことについて、具体的な問題を拾つて行きませう。

 昔から、「武士の嗜み」といふことを云ひます。これは、武士として、常人と異つた、或は人並以上の、特別の「嗜み」なるものが考へられてゐたわけです。武士の役割を果すために第一に必要な武芸の修得の外に、武士たるの体面を保つ上に欠くことのできない日常の心掛け、言語動作、装具外容を含んでゐます。
 また、「女の嗜み」といふことが云はれます。女として「かくあるべき」理想を目指して、万事に心をくばり、妻として、母として、主婦として、娘として、申分のない技術と品位とを身につけることであつて、つまりは、日本の歴史が作りあげた日本女性の最も魅力ある映像がそこに示されるわけであります。
「嗜み」といふことは、かういふ風にみて来ると、あらゆる日本人を通じて、それが真の日本人である限り、社会的、性的、年齢的条件に応じて、それぞれに示されなければならぬ力と美との活きたすがたであり、信念と叡智と品位との最も巧まざる表象であります。近代の「教養」は元来結果としてこれと等しいものを目指してゐながら、それは衣裳の如く身に纏ひ、せいぜい栄養としてのみ摂取することで満足する嫌ひがありました。
 従つて道徳は批判に終り、知識は答弁のために用意せられ、実は才能の所産としてしか考へられなかつたのです。そこからは心理の分裂が生じました。観念と生活との遊離が著しい現象となりました。そして、それを誰もが不思議と思はなかつたのです。
 読書は教養のための殆ど唯一の手段と信じられ、また、それは事実でもありました。家庭と学校の大部分は、子弟の欲するものを与へ得ず、特に、何を欲せしむべきか知りません。雑誌の氾濫は一にその結果であり、活字は活字の力で、人間の精神と生活を支配しようとしました。
 教養は新しい「たしなみ」でなければならなかつたのです。さう理解はしながら、なほかつ、修行の方法と場所をもたなかつた近代日本の社会は、あらゆる方面で、かくあるべき日本人の姿を見失はせました。典型の喪失、消滅は、男女性を通じて、青年の最大の不幸でありました。

 さて、かういふやうに、「嗜み」といふことは、心と形、肚《はら》と技《わざ》、言ひ換へれば、精神と外貌、或は技術を、常に一体として考へるところに、日本的な人間錬成の真面目が示されてゐると思ひます。
 そればかりでなく、「嗜み」の最も重要な本質は、道徳と知識と情操とが、まつたく不可分の関係で織り込まれ、知情意の最も調和したかたちを、その標準として教へ、心身一如の訓練による生活の技術的体得を目的としてゐたといふことであります。今の言葉で云へば、「文化的教養」そのものであつて、これがまた、頗る日本的な、いはゆる綜合の妙味を発揮した物の見方、考へ方だと思ひます。
「嗜み」といふ言葉の含蓄の深さはこゝからも来るのです。それと同時に、この言葉の重み、鋭さ、いづれも、日本人が、長い歴史を通じて、真に「嗜み」を尊重し、「嗜み」に生きてゐたからでありまして、今日この言葉が、既にその内容と共に忘れられようとしてゐることは、日本のために、まことに悲しむべきことです。
 そして、この「嗜み」こそは、現代の生活のなかにこれを活かせば、もうそれで立派な日本の文化であり、日本の力であり、日本の矜りなのであります。

[#7字下げ]七[#「七」は中見出し]

 さて、それならば、現代の日本人、特に、この未曾有の大試煉の前に立つた日本人として、如何なる「嗜み」を身につけなければならぬかといふ問題です。
 これをもつと端的に云へば、われわれ日本人は、この重大な戦ひを見事に勝ち抜くために、どんな「嗜み」が必要かであります。
 私どもは、まづこれを祖先の道に学ばうと思ひます。なぜなら、われわれ日本人を、生み、育て、力づけるものは、やはり、この国土と歴史をはなれてはないのであります。
 世界の知識と云ひ、外国の長所と云ひ、これを採入れ、消化し、役立たせた、その働きは、もともと、われわれの祖先が、あらゆる修業の道において、その本質を究め、精神をつかみ、練りに練つて、生なきものに生命を吹きこむ、あの「道を悟る」といふ悟道、精根の限りを尽すあの「精進」の力に外ならぬのであります。

 目下、国民運動として、あらゆる方面から、官民一体の国力増強の策が講ぜられてをります。
 まづ生産拡充であります。工場、農村、鉱山等のいはゆる産業戦士に向つて、日々激励の言葉が放たれ、国民全体も亦、その労に酬いる用意をしてゐるのでありますが、この問題を解決する根本は、なんと云つても、能率をあげるための技術の向上と、技術の力を最高度に、しかも永続的に発揮し得る逞しい精力、即ち精神的肉体的の健康と、特にその精力の泉源とも云ふべき希望と光明に満ちた生活のしかた、即ち、秩序と潤ひある日常生活の確立であります。
 以上の要素は、なにかといふと、工場や農村で働く人たちが、それぞれの「道」を体得し、自らの「矜り」として、その人にふさはしい一切の「嗜み」を身につければよいのです。
 次には、物資の活用、消費の節約、貯蓄の増額であります。
 これもまた、一言にして云へば、質素勤倹でありますから、われわれの祖先、特に華美と贅沢とを排し、剛健質実な家風をうち樹てた武家や町家の、特に農家の伝統的な生活のしぶりをこゝで振り返つてみる必要があります。それは厳粛なまでにつゝましく、美しいほどに無駄のない生活です。単純素朴の立派さ、それは、その単純が磨かれたものであり、素朴が鍛へに鍛へられたものだからです。
 この厳粛さと美しさがあつてこそ、つゝましさも、無駄のなさも、それは人間生活と云へるのでありまして、そこには、「家」の矜り、名誉が厳然としてあり、その「矜り」が、一家の「嗜み」となつて現れてゐることに注意すべきであります。
 かういふ家風は、むろん一朝一夕に成るものではありません。しかし、日本人の生活はこれでなければならないのです。

[#7字下げ]八[#「八」は中見出し]

 では、今日のわれわれの家庭に於て、どういふ点が第一に改められなければならないかといふことです。
 それをはつきり云ひますと、迂遠なやうですが、一家のものがほんたうに気持をあはせて、家のなかから一切の「醜い装飾」を棄て去るといふことでせう。
 故らに、私は、「醜い装飾」と云ひました。これくらゐ「不嗜みな」ものはないからであります。「不嗜み」とは、「嗜み」の反対で、どういふ点からみても、日本人の矜りを傷つけ、日本人の力を削ぎ、日本の理想に遠いものだからであります。
 残念なことに、現代の日本人の生活は、ごく少数の例外を除いて、有形無形の別はありますけれども、実にこの「不嗜み」なもので満たされてゐます。
 それでは、この「醜い装飾」とはどんなものを指すのか。それをいちいちこゝで数へあげることはできません。また、実際にあたつて判断を下さなければわからないものもあります。それはともかく、「装飾」である以上、それを求めた当人は、きつと「美しい」と思つてゐるに違ひない。そこが面倒なところであります。けれども、これは見る人が見ればすぐにわかるのでありますから、その気になれば解決は容易であります。
 それから、「節度」といふものを固く守ることであります。これも、日本人の「嗜み」のひとつでありますが、例へば、食ひ過ぎ、飲み過ぎ、遣ひすぎ、いづれも、「不嗜み」である。といふのは、簡単に云へば、「だらしがない」といふことで、たゞ単に、物質的な不経済を意味するだけではなく、人間の品位を下げることになり、その上、例の「もつたいない」といふ神慮にもとる行為とみなされるのであります。
 節度を失つた人間が、節度ある生活に立ち戻ることは容易な業ではありません。しかし、そこが、自分を鍛へ直し、真の日本人のすがたにかへる肝腎な道でありまして、この時代に生き、この時代を支へるわれわれの、矜りを以て貫かなければならぬ、光栄ある任務だと信じます。

 家庭生活、日常生活の改善については、現に各方面でいろいろ研究もされてをり、参考になる書物もたくさん出てをります。
 しかし、日本人の嗜みといふ立場から、序でに少しこの問題に触れてみたいと思ひます。
 そもそも「家庭」といふ言葉は――どうもすぐに言葉の詮議になりますが、これはやはり現代の日本語が乱れてゐるからで、一応厳密な意味をきめてかゝらないと、誤解が生じ易いのです――「家庭」といふ言葉は、西洋の、殊に英語の「ホーム」といふ言葉から来たのではないかと思ひますが、それだけに、どこか西洋臭いところが残つてゐて、日本風の家族の概念といくぶん喰ひ違つたところがあるやうです。しかし、事実、日本の家族そのものの概念、実質が、現在では時代と共に遷り変つて来てをります。従
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