、なまじ学識や経験を超えて、はるかに鋭い直観となり、自ら求めるものを指し示さずにはおきません。もちろん漠然としたものであるかも知れません。しかし、それはそれでよろしい。一つの映像として脳裡に描き得る典型は、寧ろ捉へ難き永遠の夢なのです。現実にこれを求めんとすることは、すべての夢と同じく、それは無駄である。たゞ、その典型に通じるものを求めて、それを得れば大いに足れりとすべきであり、自ら典型に近づくことを努めて、一歩前に進み得たら、なほさら結構であります。
試みに一二の例を挙げれば、農村青年の典型は、決して、農村青年としてのみ「模範的」であることではなく、すべての青年をして「あゝなりたい」と羨望せしめるていの魅力を備へてゐることが必要で、少くとも、「さぞ満足であらう」といふ感慨を催さしめる程度のものでなければなりません。
また、これと同じことが、青年工員また商業青年についても云へるのであります。
かういふことを云ふと、今では幾分不自然に聞えるかも知れませんが、それは現在までの世俗的な偏見に囚はれてゐるからで、農村も工場も会社商店も、国家的生産乃至配給の場としての権威を今や十分に発揮し、軍隊勤務に劣らぬ重要性を国民は認識し、これに従事する青年の「志」を多としてゐるのであります。あとにはたゞ、これらの青年に、夢を夢みる能力ありやなしやの問題が残るだけです。
現代に於ては、学生にさへもあるべき筈の典型が失はれ、明治時代の例の「書生」にみられた闊達高邁な意気は、その風貌から消え去つたやうに見えます。わづかに制服を纏つた類型が、ひそかな矜りを面映ゆげに運んでゐるにすぎません。彼等の夢は、嘗ては立身出世の邪道に落ちたが、今日の多数は、その余燼を留めて、やうやく収入の多きに走る有様と聞けば、典型の消滅もまた当然とうなづかれます。
青年の夢は、未来の己のすがたを夢みるところから始まります。夢を導き育てる道は、必ずしも遠くにはありません。いま、現に立つてゐる道の彼方は、誤りなく広大な夢の野に通じてゐます。それは如何なる境遇に身を置くかといふことではなく、その境遇を如何に切り開くかといふことであります。職業の貴賤、身分の損得は、たゞ理窟の上だけでなく、現実の問題として、断じてあり得ないことを固く信じるところから出発すべきであります。
人間は、男にせよ、女にせよ、また老人にせよ青
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