し、君は、政府から補助があるんでせう。いくらもらつてゐるんですか」
「一文ももらつてやしない」
「ほんとですか。しかし、レストランで食事ができるんでせう、毎晩」
「できることもあり、できないこともある」
「僕は、昨日から、飲まず、食はずです」
「おれは、明日から飲まず食はずだ」
「冗談でせう。君は時計をもつてゐますね」
「君は服を著てゐる」
「…………」
「君はまだおしやべりができる。おれは、今、ものをいふことさへいやなんだ。あつちへ行つてくれ」
「僕は、一昨日まで、写字と翻訳をやつてゐたんです。写字は一行一|文《スウ》、翻訳は一行二|文《スウ》です。それでやつとパンにありつけるのです。それさへ、もう、だれも仕事をくれないんです」
 僕は、その言葉を聞き流して、ベンチを離れた。パリには、到るところ、かういふ手合がゐて、東洋の君子に目をつけてゐるらしい。
          ★
 その広い部屋は、イタリイの新領土、南部チロルの山の中にあるホテルのサロンだ。メラノといふ小さな避暑地だ。同時に避寒地だ。まあ、日本なら熱海といふところだが、それが海岸でなく、山の中だ。
 隅の方で、こそこそ話をしてゐる一組の男女、男はイタリイ士官で、女はハンガリイ技師の細君、御亭主は、一週間ばかり前に、会社の用事か何かで本国へ帰つてゐる。
 ひとり、ミルク入りコオヒイを飲みながら、新聞の為替欄を読みふけつてゐるのが、昨日、ブタペストから寄り道をして来た日本の某名士と、その秘書である。
 墺伊国境劃定委員長たる仏国陸軍中佐Rは、その細君と子供とを引きつれて、今、アヂヂ河岸のプロムナアドへ、軍楽隊の演奏を聴きに出かけようとしてゐる。
 同じく墺国側の委員Z中佐は、誰かと丸テエブルをはさんで、シユニツツラアを論じてゐる。
 イタリイ委員P大佐、これは、決してサロンに姿を現はさない。夕食が済むと部屋に閉ぢこもつて、明日の会議に持ちだす修正案の稿を練つてゐる。
 英国のK中佐は、書記に命じて、翌朝の林檎を買はせる。
 日本委員M少佐は、ロシヤ人だといふ母娘に、明日午後のドライヴを約束してゐる。
 こつちでは、ホテルの支配人がイタリイ語で、盛装の婦人に何かお愛想を云つてゐる。この婦人はブカレストの女優T嬢だといふ噂である。
 そして、僕はベルリンで一流のレストランを経営してゐるといふユダヤ人K氏から、ベ
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