――セシル・ソレル嬢曰く「女優は美しいといふことが義務なのです。いいえ、美しい権利があるのです」
 一方、漫画家のBは、自分の作品が名女優の御気嫌を損じたことを遺憾とし、展覧会場に慈善箱をつるして、賠償金十万フラン調達のため、一般観衆の喜捨を求めた。
 展覧会場は押すな押すなの騒ぎである。
 セシル・ソレル嬢は、もうぢつとしてゐられなくなつた。自動車を命じて会場にはせつけた。見ると、その絵の前は黒山の人だかり。彼女は、その黒山をかきわけて、前に進み出た。そして、あはや番人の留めるひまもなく、繊手を伸ばして、額のガラス板をたたきわつた。
 翌日の新聞――「セシル・ソレル嬢の暴行」――「問題の絵は、傷ついたまま、N県選出代議士、某市市長、F氏に買ひ取られた」「嬢はガラスで指を切つた。その上、はめてゐた指輪のダイヤが、その時どこかへ紛失した」――「そのダイヤを拾つて届け出た者には十万フランの懸賞」――云々。
 展覧会が済んだ時、B君の慈善箱にはいつてゐた金、総計百十何フラン何サンチイム。
 程経て、紛失したダイヤモンドが嬢の手許に届けられた――といふ記事。届けた男は彼女の運転手だつたといふこと。記者は最後につけ加へる。
「その運転手は馬鹿な男だ。なぜ自動車の中に落ちてゐたなら、自分でそれを持つてゆかずに、仲間の一人に、はい私がどこそこで拾ひましたといつて届けさせ、懸賞の十万フランを山分けにしないのだ」
          ★
 そこは、カルチエ・ラタンの一隅、パストゥウルの並木道だ。マロニヱの落葉が、十月の風に舞ひながら、石畳の上をすべつてゆく。大戦後間もなく、パリは街燈が消えたままだ。
 デセエル一皿を倹約して、僕は行きつけのレストランを出た。
 地下鉄道《メトロ》の入口に影絵のやうな人の動きが見える頃だ。
 独り歩きの散歩にあきて、傍のベンチに腰をおろした。
 すると、どこからともなく、一人の男が近づいてくる。
「今晩は」
「どなたでしたかね」
「初めてお目にかかるんです。君は支那の方でせう」
「…………」
「さうぢやない」と答へるのは野暮の骨頂である。さういふ時“Non, Jes uis Japonais.”とでもいつて見給へ、そして相手が気の毒さうに詫でもいふと思つて見給へ。それこそとんだ間違で“〔Ca m'est e'gal〕”(どつちだつておんなしだ)が関の山だ
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