を期待するのは、私に云はせれば芸術の邪道である。
菊池氏の「父帰る」は、決して、常識的成効以外に何物もないと云ふのではない。先づ第一に、あざやかな現実整理が行はれてゐる。心理の推移に説明以外の暗示的飛躍がある。これは劇的作品として、すばらしい長所だ。これだけでも、現代日本の作品としては傑作の名が許されるであらう。
私は、此の興味ある作品について、今細かい欠点などを指摘したくない。
菊池氏の劇は、私の考へてゐる劇、殊に私の好む劇から可なり隔つてゐる。が、それは問題ではない。世の中に、一種類の色しかなかつたら、自然は如何に落漠たるものであらう。
演出について、先づ俳優に註文がある。脚本が佳いだけに、もつと工夫をして貰ひたい。する余地がある。頭の働かせ方が足らないと思ふ。ひどい云ひ方のやうだが、それは固くなり過ぎてゐると云ふことである。真面目とか熱心とか車輪とか、そんな文句に力瘤を入れて、見物の同情を買はねばならぬほど此の一座の俳優は無能ではない筈だ。もつと、ずつと、ゆとりがあつていゝ。ふつくらと、丸みのある演出をしてほしい。すつきりと、冴えた演出をして貰ひたい。「科」と「白」との間に、もう少し肉を附けて欲しい。そこから幾分此の作には不足な「ニユアンス」が生れて来るに違ひない。
猿之助は始めからあまり情味を隠し過ぎてゐるやうに思ふ。冷くなり過ぎてゐる。
八百蔵は、立派だ。兄に対して、もつと打ち融けた話しぶりをした方がいゝ。「秋だなあ」は、困つた台詞だ。六ヶ敷いに違ひない。もつと、軽く、なんでも無く云つてしまふ文句だ。
嘉久子は、控え目に演じてゐるやうだが、此のひと、五年以来、すつかり役者になつた、はまり役も相当あるだらうが、これなどは研究すべき役の一つだと思ふ。
美禰子については別に云ふことなし。美しいと云ふのが褒めたことになれば、さう云つて置く。
父親の役は、成るほど、適役だと云へないのが残念である。もう少しどこか一点を見つめ得る男にして欲しい。凄味などはいらない。あんなあやふやな人物にしては面白味がない。殊に、長男の言葉に耳を傾ける、少くとも、それを遮らうとしない父親である。無性格な人物、さう云ふ感じがするのは演出上の失敗である。不自然な誇張が多い。此の人は臨時加入らしいが、全然、演伎上のトンが違つてゐる。
底本:「岸田國士全集19」岩波書店
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング