思はれるが、たゞ一つ、上演目録作製の標準について、僕が、予て仏蘭西の某実際家について学び得たところを披瀝すれば、先づ、所謂新劇運動なるものには二種類あつて、或る時代が生んだ特殊な芸術的傾向の為めに起つたものと、演劇の根本的革新を目的として、永久の存在を主張するものとに別れるといふのである。前者は、その上演目録を選ぶに当つて、一定の明瞭な標準があるに反して、後者はその範囲が極めて広いと同時に、その結果の杜撰さは正にその劇団の致命傷たるべきものである。加之、劇団存続の為めには、所謂「傑作」のみを上演するのがいゝとは限らない。或る程度まで「ポピュラアなもの」「肩の凝らない物」を加へる必要がある。それでゐて、それが、非芸術であることは絶対に避けなければならない。つまり、種別《ジャンル》の問題である。思想劇よりも世相喜劇が「ポピュラア」であり「肩が凝らない」といふ意味に於いてゞある。それから、新進殊に無名作家に寛大であつてはならない――これはどうしたことです――劇団の生命を託するやうな作品は、作家は、三年に一度、十年に一度出るか出ないかである。何度観ても観あきない作品、それを何処よりも芸術的に演
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