」と。
 芸術家は、一般公衆と共に、自然と人生とを観ればいい。一層注意して観ればいゝ。絶えず眼を離さずにそれを観てゐればいゝ。そして、自ら胸に浮ぶ想念を、感興を、情懐を、たゞ正直に述べればいゝ――友と語るが如く。
 その観方が、他のものよりも少し深く、その述べ方が、他のものよりも少し光彩に富んでゐるとき、彼は、少し彼らよりも芸術家たり得るのである。
 凡そ、人間を、芸術家と然らざるものとに二分にしようとするが如きは、嗤ふべき妄想である。
 芸術家を以て自任するものは、その道に於て、不明と慢心によつて何人をも退屈させてはならない。うるさがらせてはならない。
 或る聴き手に取つて、その述べるところのことは、殊に平凡なことであるかも知れない。何も教へないかも知れない。それはしかたがない。それで満足する外はない――その聴手を微笑ましめ、または、快よき涙を誘ふことができたならば――まして、その胸を、ほんの少しでも撃つことができたならば――。
 小山内君は「劇場の中に人生を観た戯曲」として或る脚本を斥け、あまつさへ、それを読んで、その作者の落度でもあるかの如く「驚いて」をられる。(読者よ、許し給へ、それは僕の作「チロルの秋」である)
「芝居といふ建物の中では、どうにか葉が茂り花も咲くかも知れない。然し、吾々が現在吾々の周囲に見てゐる人生といふものゝ中に持ち出したら、恰度、温室から冬出された夏の花のやうに、忽ち萎んで了ふだらう」
 批難といふものが、これほど讃辞と一致する例《ためし》を、僕は未だ嘗て知らない。
 僕は、僕の戯曲を、夢にも芝居といふ世界から外へ持ち出す野心はない。野心がないどころか、そんな事をされては迷惑至極である。
 それにしても、僕は、自分の書く戯曲が、果して、温室へ入れてまで、葉を茂らせ、花を咲かせるほどの植物であるかどうか、その点で、既に大きな疑ひをもつてゐる。
 日本演劇界の耆宿小山内君から、さういふことについて、もう少しはつきりしたことを云つて頂きたかつた。たゞ、「舞台は人生の温室なり」といふ美しい定義は、これから、僕のものとして取つて置きたい。
 わが見すぼらしき在るか無きかの花よ――花と呼ばれたればこそ、かくは今汝を呼ぶなれ――わが愛する室咲《むろざ》きの花よ――
 希くば、此の寒空に、汝の温かき住家《すみか》を出づる勿れ。



底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「演劇新潮 第一年第十号」
   1924(大正13)年10月1日発行
初出:「演劇新潮 第一年第十号」
   1924(大正13)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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