ネつたのだ。
この映画からもう一つ発見をしたことは、同じ舞台俳優でも、「正しい訓練」を受けたものと、「因襲的教育」を受けたものとでは、その映画俳優としての感覚に雲泥の差が生じるものだといふことである。即ち、前者は、例へばリイヌ・ノロの場合で、映画に於ける「舞台的演技」の領域をおのづから感得し、後者は、共演の某々に見る如く、映画に於て舞台的習癖を不用意に暴露してゐる。これは、寧ろ、「正しい演技」といふものは、映画にも舞台にも、本質的に共通するものであるといふ結論になるのかもしれぬ。このシナリオとこの監督の前に立つたリイヌ・ノロのジェルヴェエズは、決して映画的純粋さを演技の上で発揮し得たとは云へぬが、さうかといつて、その舞台的魅力なるものが必ずしも映画性の没却とならぬところ、わが国映画批評家の一考を煩はしたい点である。
その証拠に、僕は、逆の例をも挙げることができる。
先日、ある目的で、PCLの「さくら音頭」といふトオキイを「見学」したのであるが、それには、日本の新劇俳優中、最も名声ある数名の人々が登場し、それぞれ所謂「舞台的経験」を示してゐた。しかるに、それらの人々は、僕の意見では、凡そぎごちない、重苦しい、凡そ「映画的」でない、従つて、魅力に乏しい演技を見せてゐるのである。
が、これを以て、舞台的経験が発声映画にとつて無用であると早合点してはならぬ。実は、舞台経験にもよりけりであつて、これらの人々は、なるほど今日の新劇界では錚々たる俳優であるかもしれぬが、そもそも、今日の新劇が、悉く「正しい訓練」を欠き、従つて、その最高レヴェルを代表するといふそれらの俳優の演技なるものが、凡そ「舞台的」でもなんでもなく、言ひ換へれば、舞台の上でも、ぎごちなく、重苦しく、凡そ魅力に乏しいものなのである。殊に、白の不味《まづ》さ加減は、今日の新劇の致命的特徴であつて、それをわざわざ、エキスパアトとしてトオキイに採用した監督の了見が僕にはわからぬ。
これならば、監督の頭次第で、づぶの素人を使つた方がよほどましだと、僕は信じてゐる。
因に、この「さくら」映画で、一番気の毒な目に会つてゐるのは、ダイアロオグであることを附け加へておかう。(一九三四・四)
底本:「岸田國士全集22」岩波書店
1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
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