リックからの独立である。その間、反動として、素人劇[#「素人劇」に傍点]が生れ、詩人劇[#「詩人劇」に傍点]が生れ、美術劇[#「美術劇」に傍点]が生れ、電気劇[#「電気劇」に傍点]、機械劇[#「機械劇」に傍点]などまでが生れようとしたが、結局、舞台はといふよりも寧ろ演出家と俳優は、必然的に、戯曲、即ち文学の指向する道を知らず識らず歩まされて、今日に至つてゐる。彼等は、しかもなほ、口を揃へて、「新しき戯曲出でよ」と云ふのである。
 私は、彼等が何を求めてゐるかを知らないが、少くとも、「新劇運動」の一員を以て任ずる彼等が、一攫千金を夢みてゐるとは信じられないし、「過去に在つた」ものの複製を探してゐるとも考へないから、只単に「変つたもの」「新しいもの」を追ひ求めるスノブの群は別として、他の芸術の部門に於ける如く、「純粋なもの」への欲求が、何等かの形に於て示されて来るであらうと待ち構へてゐるのである。
 で、私は先づ、自分の仕事を始めるに当つて、一つの意見らしいものを公表した。これは、巴里に於けるヴィユウ・コロンビエ座の運動から暗示を得た「演劇の本質主義」とも名づくべきもので、ジャック・コポオの理論は第二として、その仕事から直接、ある意味を嗅ぎ出して、私流に解釈した独断に類するものであつた。この「本質主義」なるものの説明はここで繰り返す煩を避けるが、要するに「純粋演劇」への明らかな趨向を示したつもりであつて、その論旨の中枢は、かの「ドラマチック」なる語の再検討であり、従来の「ドラマツルギイ」への率直な質疑でもあつた。なほ、近代演劇運動の諸相と題する一文中、「近代主義と本質主義」なる項に於て、表面相反する如く見える二つの傾向、即ち、過去の否定と、古典尊重の精神とが、等しく現代の演劇革新運動の中に相対峙し、又は、相交錯する状態についても述べたのであるが、これらの諸相を通じて、私は常に、「純粋演劇」への探求が、その窮極に於て問題とされるであらうと信じてゐたのである。
 そこで、近代劇運動の理論的帰結が、「演劇の再演劇化」にありとして、あるものは、近代主義的舞台の建設に、あるものは、本質主義的演技の訓練に、それぞれ目覚ましい活動を続けつつあつた戦後欧羅巴の劇壇は、われわれに何を齎したかといへば、単に、その中途に於て明滅した個々の流派的宣言と、その運動自体の末梢的輪郭だけであつた。

前へ 次へ
全13ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング