なかつたといふことだ。最初、支那兵の一隊が此処へ侵入して、無断で陣地を構築しはじめた。自分は、厳重に抗議した。隊長は聴き入れない。命令だからやるといつて動かない。自分は、その命令が何処から出たかを知る必要はない。早速漢口の領事館へ電報を打つた。支那当局に向つてかゝる行為の禁止を要求してもらふためである。領事から返事が来た。その返事はこれだ。支那当局は直ちに要求を容れた。必要な手配がとられる筈だが、極力実行を監視せよといふのだ。自分は殆ど腕力に訴へて、支那人を追ひ払つたのだ。しかも、彼等に、破壊した部分を修復せよと迫つたが、彼等は、この通り申訳のやうなことをして立ち去つて行つた」
「この外観は、依然として陣地である。日本軍の砲撃は受けなかつたか?」
 彼は、そこで、空を仰いだ。そして、黙々として私をある一室に導き入れた。彼の居室である。
「恐しい瞬間だつた。自分は砲声の轟いてゐる間、なにをしてゐたと思ふか。しかたがないから、こゝでパスカルを読んでゐた」
 肩をぴくんとあげるといつしよに、芝居気たつぷりなこのカトリックの坊さんは、ソファの中で片眼をつぶつて笑つた。
 天主堂の内部もまた、本国の寺院建築をそのまゝうつしたものであるが、材料の貧しいこと、工事の拙いことをしきりに坊さんは弁解する。
 病院はすぐ向ひ側になつてゐて、これは別の修道院の管理下にあることがわかつた。院長の尼さんに紹介される。いゝ育ちを思はせる毅然としたフランス女で、私が何者であるかを説明すると、やゝ寛いで話をしだした。
「いまはごく僅かの患者しかゐません。医者はみな引あげました。薬も手にはいりませんから……。それに、今度、日本軍から、この建物を戦病兵収容のために使ひたいから貸さぬかといふ交渉があつたので、上海の本部へ指令を乞ふ手紙を出しました。まだ返事が来ませんが、許可があり次第、お引渡しするつもりで、もう移転の準備をはじめてゐるところです。まあ、ごらんください、別に大した設備もありませんけれど……」
 司祭のモレル氏は私の希望に応へて、この病院に関する簡単な説明書をタイプライターで打つてくれた。それを訳してみる。

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 名称――聖ヴァンサン病院。一八八〇年、茶及船舶製造に従事する苦力のために創立。最初の経費は年額一四三〇両、現在は年額二五〇〇〇ドルに達す。
 構内は四種の病院に分る。欧洲人のための病院、支那人のための有料病院、同じく無料病院、婦人及乳児のための病院。病床一五〇、手術室大小各一。
 前年度成績は入院延日数二二八三〇日。毎日午前医局外来及貧民区往診。投薬数三四、七四三名。
 職員其他――医師一、教母一〇、男女傭人八六(看護婦、雑役、炊事係、洗濯婦)
 附属小学校――教師九、生徒一五〇。
[#ここで字下げ終わり]

 彼女のあとについて、部屋々々をのぞいてまはる。
 こゝで私は、この病院の規模について詳しいことを語る必要はないと思ふ。たゞ、すべてが明るく、清らかで、温い微笑をたゝへてゐるやうに思はれた。「西洋」は厳然と別天地を作つてゐて、恩寵はこゝにのみあるかの如くである。重病患者の枕もとに、やはりフランスの尼さんが一人ついてゐた。にこやかな会釈をもつて私の目礼に応へた。支那人の尼さんもいくたりかゐた。それぞれ荷造りの最中であつた。院長が言葉をかけると、実にはきはきした調子で受けこたへをする。こゝにかうしてゐるのが幸福さうにみえた。
 日を更めて、もうひとつの天主堂へ出掛けて行つた。そこは、郊外に近いところで、附属の神学校があり、四十人の支那学生が事変をよそに講義を聴いてゐた。司祭はもう五十年も支那にゐるといふ老人で、あのフランス人によくみる皮肉な顔附と、殊に、例のこだわりのないカトリック的自由さとが、私をははん[#「ははん」に傍点]とうなづかせた。
「世界中で支那は最も貧民の多い国だ。支那の農夫たちがどんな生活をしてゐるか、君は知つてゐるか? 彼等は、あらゆる天災の犠牲者だ」
 広いホールの真ん中で、彼は私とほかに四五名の職員――なかに支那人の姿も見えた――を前にして語るのである。
「戦争……何時の戦争もおなじことだ。われわれはどうすることもできない。たゞ、日本と支那との関係を考へてみよう。自分が今日まで支那で過した経験から云へば、嘗て日露戦争後の一時、支那の上下をあげて日本贔屓であらうとした。日本でなければ夜が明けぬといふ状態になりはせぬかと思つた。その頃誰が今日あることを想像し得よう。欧米人が日本人と異なることを支那に於て行つたとすれば、それはかうだ。欧米人は金を少し余計に出した。しかも、それは資本を支那人の手に委ねて、その利益の幾分を要求するといふ仕方であつた。日本人は金を出し惜んだ。しかも、君達は自分で儲けてその分け
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