あしらふことはもちろん、支那人経営の料理屋でも、特にこつちを凝視する眼さへ感じないくらゐである。そのくせ新聞の売子が夕刊を売りつけに来るのを買つてみると、麗々しく反日記事が掲げてある。
「新申報」といふ親日新聞は、この租界ではさつぱり売れないさうである。尤も、民衆が自発的に読まないのではなく、漢奸の名を着せられることを懼れてゐるのだといふ話である。
上海のことはもうだいぶん内地にも知れわたつてゐるから、私は詳しく書かない。たゞ、将来はいざ知らず、今日までの情勢からみて、この都市の解剖こそ、支那事変の複雑な相貌を白日下にさらすものだと思ふ。
所謂抗日テロリストの群はしばらく措き、かゝる直接運動に参加してはゐないが、しかし、もつと先の方を視てゐる支那知識層の個々の動きといふやうなものを、どういふ方法かで知りたいと思つたが、それは今はまだその時期でないやうである。
報告を終るについて
十一月二日、福岡へ飛ぶ。日本の空だなと思ふ瞬間、私はふと胸に熱いものを感じて、窓に顔を押しあてた。
唐津のあたりが眼の下に見える。
入江には漁船が走り、畑は耕され、田は実のつてゐる。裾を引いた山襞の間に、白く光るのは谷川の水であらう。
それぞれに、父を、夫を、兄を、息子を戦場に送り出した家々が、あちこちにみえる。ひと目でそれとわかるのは、時局下のきびしい風景である。しかし、そのきびしさは、豊穣な土地の眺めのうちに溶け込んで、黙々たる微笑の如きものとなつてゐる。
福岡で上りの寝台を求めようとしたら、その日のは無論、翌日の分もすつかり売り切れであつた。そこで、思ひついたのは、私が嘗てゐた久留米の連隊をちよつとのぞいてみたらといふことで、実は、今、その連隊に同期の米良が大隊長として召集されてゐることがわかつてゐたからである。
早速、その当時はなかつた急行電車で、筑後平野を縦断した。
幼年学校を卒業して士官学校へはひるまでの半年と、士官学校を出てから任官後二年を過したこの久留米といふ町は、なにかにつけて想ひ出の多い町であるが、連隊の兵舎も昔ながらの面影を残し、衛兵所の上へ枝をひろげた榛の木にもたしかに見覚えがあつた。
わけても、将校集会所の食堂は、多少趣きは変つてゐたが、もとの場所にもと通りあつて、時の連隊長や連隊附中佐のいかめしい顔がありありと浮ぶやうであつた。
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