べがついてゐた。
最初どうしても兵隊ではないと云ひ張り、遂に何を訊いても口を噤んで語らなかつた、あの「怪しい人物」は、その後、憲兵の前で遂に立派な歩兵伍長であることを自白した。姓名、孫寿安、年齢二十七、所属、八九軍一〇四師四九七旅六九七団第二営第四連。聴取書によると、彼は一年前まで百姓をしてゐたのだが、強制徴集で兵籍に入れられたのである。最初は炊事当番であつたが、累進して伍長となり、今度の戦闘では分隊を指揮してゐた。給料は月十一円、そのうち食費六円を差引かれるから五円しか手にはひらない。一日二食の給養で、午前九時と午後四時、あとは空腹を忍ばねばならぬ。上等兵となると給料は八円、一等兵が七円八十銭、二等兵で七円三十銭、食費は同様である。
兵隊は辛い。機会があつたら逃亡するつもりでゐた。捕虜になつた以上どうされても仕方がないが、万一赦されるならば、将来は日軍のために献身的に働くつもりである、云々。
もう既に、この収容所でも、「日軍のために」働いてゐるものがゐる。李成林といふ大尉もその一人で、なかなか役に立つ。誠意を認められて家内を呼び寄せることを許された。早速やつて来た細君は、甲乙二人であつた。何れも断髪の美人である。
歯医者さんに歯の治療をして貰ひに行く。独身のこの歯医者さんは、空家同然の住居に機械だけ据ゑて、書生、番人、下僕を兼ねた老支那人と二人で侘しく暮してゐる。
日本を離れて数年、各処を転々として、最近この町に腰をおちつけたのださうである。
治療がすむと、私に「これはどうだ」と云つて紙ぎれに書きつけた漢詩のやうなものをみせる。どうも恐縮だが、この自作の七言絶句はたゞ文字を並べただけのやうだ。「長江に船は浮べども帆の影が淋しい。楊州に美人多しと聞くけれども、果してさうだらうか。我は孤独の身を此処に運んだのだが、未だ妖艶わが魂を奪ふ姿を見ない。嗚呼、秋風なんぞ放浪の身に冷やかなる」といふ風なものであつた。
市場のなかをぶらぶら歩いてゐると、名も知らず、味の想像もつかない食物が、ずらりと店先に並んでゐる広い間口の家がある。奥をのぞくと、いくつもの卓子を囲んで、人々が盛んに飲み食ひしてゐる。料理屋だなと思つてつかつかと中へはひつてみたが、空いてゐる席がひとつもなかつた。
そこから少し先に、露天の茶店みたいなものがある。昼近くで腹が空いてゐたし、その茶店へ
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