、ある一つの醜い影を見ることを恐れてゐる。この影を消しおほせた時に、自分の作家としての仕事は完成するのだと思つてゐる。
私は、未だ嘗て、どういふ意味に於いても、英雄を、非凡な人物を描かうといふ慾望を起したことはない。
私は、「目の届かない」ことを恥ぢる。凡人は――誰か自分を凡人に非ずと云ひ得よう――凡人を識るだけが関の山である。
私は英雄の英雄たる半面に興味はない如く、その凡庸な半面にも興味はない。凡人の凡庸な全面にのみ興味をつないでゐる。それは自分の姿であるからばかりではない。そこに全き一人の人間がゐるからだ。見えるからだ。
私は、自分の理想とする人物を考へたことはない。それは危険なことだ。「かくあらねばならぬ人物」を、今の世に「存在させる」ことは不可能である。
私はまた「人間的価値」といふものにも疑ひをもつてゐる。そんな絶対的なものはあり得ないではないか。故に、自分の「価値づけ」が他人に興味があらうとは思はない。
凡人とは、所謂「質」に関係のある呼び方ではなく、「量」に関係のある呼び方である。
遠いものを近くし、重いものを軽くし、深いものを浅くするところに文化の歩みがある。
濃いものを淡くし、太いものを細くするなど、これは文化の戯れだ。
その証拠に……その証拠はいくらでもある。
なぜこんなことを云ふかといふと、私は、深いものを深く見せる文学なら兎も角、浅いものまで深さうに見せる文学に感心しないからである。
深いものを浅く見せる文学、これは、ざらにあるわけはない。
深くして濁れるより、浅くして澄みたる方、私の好みからいへば有りがたい。
おれもその方が有りがたいなんて、誰でも云ひさうだ――いやさうでもあるまい。
私は、これで、自分を語ることを当分見合せよう。(一九二七・一二)
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
1936(昭和11)年11月15日発行
初出:「文芸春秋 第六年第一号」
1928(昭和3)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年11月25日作成
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