といふものは、所謂絶対思想といふものから見れば、多少不純なものをもつてゐても、その人が心の中で、いろいろと思想の闘ひをしつゝある人だとすると、たまたまそのもつてゐる思想に多少の不純さが目についても、苦しんでゐるといふその誠実さによつて、もつと日本のためになるといふ人がある。思想といふものはさういふものだといふことを、どうしてもハツキリさせなければならぬやうに考へます。
 兎に角、或る一つの仕事に一生懸命情熱を傾けてゐる人が、今までの習慣とか興味から、どうしてもさういふ言葉を使はなければ自分の思想が表せなくて使つた言葉を直ちに取り上げて、あの男は危険な男だとか、不純な思想をもつてゐるとかいふ風にレツテルを貼つてしまふのは、たゞいまの日本にとつて非常に損なことだと思ひます。
 私は思想そのものゝ影響力よりも、人間の影響力の方がズツと強いと思ひます。立派な思想でも人間がつまらなければその思想を殺すやうなものだし、逆に、仮に個人としてはまだ自由主義的な考へをもつてゐる人間でも、兎も角、今自分は国家の為に尽さなければならぬのだ、といふ気持を強く感じ、さういふ情熱を奮ひ立たせるならば、その影響力といふものは、その人間の自由主義的な思想の力そのものよりも、一層民衆を奮ひ立たせる力になると思ひます。さういふことも政治家にわかつて欲しいのです。
 経済の方で云ふ自由主義といふ言葉と、一般の哲学などの方面で使はれてゐるその言葉とを一緒にしてよいかどうか。いづれにしろ、今までと全く違つた思想がこゝに考へ得られるかどうか、といふことはよほど吟味が要ります。今までのあらゆる思想のなかで、本当に日本の進歩に役立ち、また、実際国家の発展に役立つ思想の力といふものを考へる場合に、あれは自由主義的な考へ方だとか、それは個人主義的な考へ方だといふことで、一切の思想を片附けてしまつてよいものかどうか。さういふものを排斥したら、一体どんな思想が出来るか、その可能性といふことを考へてみる必要があります。
 明治時代に、日本の過去のよい伝統までなくしかけたといふ点をわれわれはよく吟味しなければなりません。欧化といふと、日本をすつかり捨てゝしまふものゝやうに考へたことすらあるのであります。(昭和十五年十二月)



底本:「岸田國士全集25」岩波書店
   1991(平成3)年8月8日発行
底本の親本:「生活と文化」青山出版社
   1941(昭和16)年12月20日
初出:「日本評論 第十六巻第一号」
   1941(昭和16)年1月1日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2010年1月20日作成
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