ゐたし、機到れば、築地小劇場の舞台でフランス劇の演出でもやれたらと、ひそかに考へてゐたくらゐである。
 さういふ関係で、いよいよ、旗挙公演の出し物が、チエーホフの「白鳥の歌」、マゾオの「休みの日」、ゲーリングの「海戦」ときまり、初日招待の切符を受けとると、僕は、心の中で呟いた。
 ――出し物は、別に文句はない。今日の日本の俳優が西洋劇をどの程度までやりこなせるか、
 そのための訓練と指導が、どの程度まで行はれてゐるか、まづ、これが目のつけどころだ。
 丁度、その頃、巴里で識り合ひになつたHといふフランスの青年がはるばる日本にやつて来てゐた。宿をきめるまでといふので僕の家に寝泊りをしてゐた関係から、たまたま、マゾオの「休みの日」を観せてやらうといふことになつた。彼は前もつて原文のテキストを読んでおきたいといふのだが、僕は生憎、そのテキストをもつてゐない。ヴイユウ・コロンビエ一座の上演目録中にはひつてゐたことだけ知つてゐたが、かけちがつてその上演も見そこなつてゐるし、こつちも読んでおく方がいゝから、やつと人から借りて、そいつを彼に朗読させたものである。
 妙なもので、やはり、素人でもフランス人の声で聴くと、巴里で芝居を観るのに近い印象をうける。「心理詩派」マゾオのエスプリと文体はほゞ呑み込めた。日本の俳優には一番苦手なやつである。第一、これがどんな翻訳になつてゐるか? 微妙なニユアンスが果して捉へられてゐるか?
 僕は、正直なところ、築地小劇場の自信をもつて世に問ふこの度の舞台に、半ば興奮に似た期待と、半ばわがことのやうな不安とを抱きながら、例の歴史的な銅羅の鳴り響くのを聞いたのである。

       八

 さていよいよ築地小劇場の旗挙公演である。胸おどる招待日の印象をこゝに書きとめることは、今の僕にとつてまことに感慨無量である。
 新装成つたこのバラツク劇場のフアサードは、一見、植民地の教会堂然たるものであつた。足を踏み入れた途端、妙に呼吸苦しい、取りつく島のないやうな感じがした。灰色の壁の低い空を思はせる陰鬱さもさることながら、アーチ形のプロセニウムが階段でオルケストルにつながつてゐる、その冷たく重い線のなかに、僕は、もう、「北方」を感じて、思はず肩をすぼめてしまつた。
 無装飾と単純さはありがたい。しかし、この渋面《グリマス》と臂の張り方はなんとしたものであらう?
 が、これは趣味の問題としておいて、幕のあがるのを待たう。
 やがて、あの歴史的な銅羅が鳴り響き、幕の向ふには、輝やかしい興奮の渦が巻いてゐるらしく思はれたが、われわれ、幕のこつちでは、くすぐつたいやうな微笑がそここゝで、「おどかすない」と云つてゐた。それは、別段、不愉快なものではなかつた。しかし、如何にも子供臭い威勢のよさで、かつ、若干異国的な不気味さを交へてゐるからだつた。
 この、どつちかと云へば、心和まぬ空気にもかゝはらず、僕は、熱心に、期待にあふれつゝ舞台に眺め入つた。
 幕間には、さすがに巨万の財力を基礎とする劇団の余裕をみせ、招待客全部に紅茶とサンドウイツチの饗応があり、僕などは危く辞退するほどだつた。
 そこで、舞台そのものゝ印象はどうであつたか?
 クツペル・ホリゾントとやら云ふ日本最初の背景装置はなるほど効果的であると思つたほか、実を云ふと、演しもの三つを通じて、その如何なる部分にも感心しなかつた。ちつとも面白くないのである。退屈至極でさへもあつた。時々は、腹立さしさに腕をよぢつた。あゝ、こんなことでいゝのだらうか?
 僕に、今夜の劇評をしろと云ふものがあつた。少し考へさせてくれと、僕は答へた。
 新聞の劇評は、僕には書けないやうな気がした。「この芝居は観に行くな」と云ふやうなものだからである。
 それにしても、まだ絶望するのは早い。僕は、公演の終る頃をまつて、需められるまゝに「新演芸」といふ雑誌に一文を送つた。「築地小劇場の旗挙」と題する「劇評」ならぬ「意見書」のやうなものである。
 次にその全文を掲げることにする。
〔以下省略〕



底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「劇作 第六巻第一号〜第九号」
   1937(昭和12)年1月1日〜9月1日発行
初出:「劇作 第六巻第一号〜第九号」
   1937(昭和12)年1月1日〜9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの
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