。妹と二人暮しであつたから、その妹も序に坐らせた。あゝ、日本といふ国はなんといふ有難い国であらう。あれくらゐのものを書いて、遂に、僕は「知られ」ることになつた。
 それまでは、さほど気にとめるつもりもなかつた世評に対して、僕は、やはり好奇心を動かした。しかし、月評を漁つて読むといふ手は知らなかつた。で、自分のとつてゐる新聞で、人が何と云つてゐるかを注意した。時事新報で、金子洋文君が好意に満ちた批評をしてくれたのが最初である。翌月の演劇新潮で、柴田勝衛氏が毛色の変つたものとして「古い玩具」をあげてゐた。柴田氏は当時読売の文芸部長、僕のところへ訪問記事を取りに来た青年記者は、現在同紙の文芸部長清水源太郎氏であつたことを思ひあはせると、誠に今昔の感に堪へない。
 その外の批評は、出たかも知れぬが僕の眼にはまつたく触れずにしまつた。たゞ、「新演劇」といふ雑誌で、小寺融吉氏が、「新人の名に値しない作品」だとこきおろしてゐるのを後に読んだ。読んだ時は「何を」と思つたが、さういふ人もあつてくれてよかつたといふ気が今はするのである。誰がかう云つて褒めてゐたとか、貶してゐたとかいふ間接の話が随分聞かされたが、みんなあらかた忘れてしまつた。
 四月号から、僕は、山口才十といふ匿名で雑文記事を書きだした。「仏国劇作家の利権擁護運動」といつた類のものである、五月号では、水谷八重子の芸術座公演を批評した。
 この批評文は、僕の最初の「新劇印象記」であるからこゝにちよつと抜萃する。

 演技について。(シヨオの「軍人礼讃」)
 私はまづニコラに扮した東屋三郎氏に満腔の讃辞を呈する、どこがいゝのか未だよくわからない。何しろ日本にもかういふ役者が出て来たかと思はれるやうな一種のエスプリイを持つた人のやうに思はれた。口だけでものを言つてゐない。すばらしい瞼の働きをもつてゐる。……
 ライナに扮する水谷八重子嬢は悲劇の主人公にもしまほしき美しさだ。彼女の持味は古典喜劇の「|オボコ娘《アンジエニユウ》」だ、コケツトを演ずるためには何か知ら欠けたものがある。
 田村秋子嬢のルーカはあゝ何時もすね[#「すね」に傍点]てばかりゐなければならないであらうか。だから、ほんとにすね[#「すね」に傍点]る時に、そのすね[#「すね」に傍点]が利かなくなる。よくあることだ。
 要するに翻訳劇を日本でやるとすれば、先づ第一に脚本の詮衡、原作者の名前に囚はれないで、上演に適した翻訳であるかどうかを吟味することが必要である。こんなことは云ふまでもないことであるが、この誤りは逆に俳優を窮地に陥れるものである。あの間《ま》のびのした台詞廻し、朗読の範囲を一歩も出ない抑揚緩急、科と白との間に出来るどうすることもできない空虚、これらは前に述べた戯曲の文体から生ずる舞台的欠陥である。
 私は日本の近代劇が先づこの点で大きな障碍とぶつかつてゐることを痛切に感ずる。

 六月号に、ルナアルの戯曲「日々の麺麭」の翻訳をのせた。

       七

 そして、この年の六月には、日本新劇史上、劃期的の事業とされてゐる築地小劇場が創立せられ、その旗挙公演が華々しく行はれた。
 私は勿論、大なる感激と期待をもつてこれを迎へた。かねがね、いろいろな機会に、この運動の具体化されつゝある情報を耳にしてゐたことはゐたし、ほゞ、その輪廓は推測し得るものであつたが、要するに、独逸帰りの土方与志氏が巨万の私財を投じ、嘗ての「自由劇場」の創立者小山内薫氏が采配をふるふといふことだけで、十分、合理的なプランと良心的な目標とが掲げられるものとわれわれは信じてゐた。
 さて、第一回公演に先だつて、「築地小劇場建設まで」といふ小山内氏の文章が発表された。
 この文章は、永遠の青年小山内氏の面目を伝へるばかりでなく、当時の若い世代が新演劇に対して抱いてゐた熱情の一つの型を代表するものだと思ふ。参考のためにその全文を引用する。

「私が去年の三月、松竹と手を切つた時――それは私が日本の営利的劇場のすべてに対して、望みを絶つた時でした。
 私は再び日本に於ける営利的の劇場には如何なる関係に於いてもはひつて行くまいと決心しました。私は唯書いて、僅に生活し、僅に自分を慰めました。
 その内に私の思想の上にある黎明が来ました。それは独逸に行つてゐる土方が帰つて来たら二人で演劇学校を興す事でした。
 大地震が来ました――その時私は家族を挙げて地方にゐました――東京の殆ど総ての劇場は焼け亡びてしまひました。私の心の中で半年前に亡びてしまつてゐた総ての劇場は目に見える形の上でも亡びてしまつたのです。……
 併し、総ての劇場が亡びると共に私自身の希望も亡びてしまひました。少くとも十年のギヤツプが私の目前に口を開いたのです。
 震災後の東京の劇壇――すべ
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