い」と云つた。嘘のやうな話だがほんとである。
その数日後、私は、喀血をして、下宿のベツトで死の覚悟を決めた。が、死は僕を見放した。かくて、シヤンゼリゼエの小屋に無限の心残りを感じつゝ、医者の勧めで南仏ポオへ旅立つた。ピトエフからはなんの便りもなかつた。
いよいよ、仏蘭西を去る日が来た。僕は、ピトエフに別れを告げに行つた。彼は、「黄色い微笑」について語るところは少く、たゞ、「ピトレスクだが、上演となると……」で、あとは言葉を濁してしまつた。夫人は、女主人公フサコがやつてみたいと云つた。お世辞であらう。
×
当時、巴里にゐた辰野隆氏は、僕と劇を談ずる唯一の友であつた。私は、この先輩に、ちよつと照れながら、自作の脚本といふやつを読んでみてくれと頼んだ。念のため、といふわけでもなかつたが、いくぶん本気だといふ意味を伝へるために、この仏訳をピトエフに見せたこと、彼の批評はまんざらでもなかつたことを附け加へた。辰野氏たるもの、さぞ困られたことであらう。いくぶん本気で読むことを強ひられた形であつた。
ここで、辰野氏の好意に満ちた激励の言葉を書き列ねる必要はあるまい。
友情は、つひに、私を駆つて、この処女迷作を日本に持ち帰らせたのである。
二
さて、もう一度話を前に戻す。
日本にゐる頃、学校の教室や、僅かな参考書や、たまにのぞいてみる新聞雑誌の類で、現代フランスの劇壇について若干の知識を得たつもりでゐたのが、巴里へ渡つて実際の情勢を探つてみると、いろいろ新しい問題にもぶつかり、ぼんやりしてゐたことがはつきりし、今迄の価値判断が根こそぎ覆されるといふやうな始末であつたが、僕は、それについてかういふ風なことを考へた。第一に、芝居、殊に戯曲がほんたうに優れたものであるかどうかは、上演の結果だけではわからないのみならず、肝腎なことは、その時代の文学一般との関係に於てこれを検べなければならないのではないか? 従つて、劇評家の批評だけでは、何か肝腎なものが見落されてゐる惧れがあり、やはり文芸批評家の批評と併せて、その作品の時代的意義が全面的に浮び上るのではないかと云ふこと。
第二は、初演には大成功を収めたといふものが、だんだん人気を失つて行くに反し、最初は冷評乃至酷評を受けたものが、十年二十年とたつてから、たまに再演される機会を恵まれ、これ
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